淡い、赤、ミニマリスト、テキスト、引用、旅、Instagram投稿

NHK出版が出している「哲学のエッセンス」という全24巻のシリーズを20~30代の頃に集めたものの、未だに全部読み切れておらず、今度こそ完読しようと決意しました。3年ぐらいかけて、1冊ずつInstagramに読後感想をアップしていきたいと思います。

第1弾は『プラトン―哲学者とは何か』。プラトンの『対話篇』を解説した1冊です。『対話篇』は、プラトンが師と仰ぐソクラテスと人々とのやり取りを回想的に記録することを通じて、ソクラテスの思想を明らかにしようとするものです(ソクラテス自身は著書を残していません)。

ソクラテスと言えば「無知の知」が有名ですが、無知の知を自覚するようになったのは「アポロンの神託」がきっかけです。

ある時、ソクラテスの友人がデルフォイのアポロン神殿に赴き、「ソクラテスより知ある者がおりますか?」と尋ねたところ、アポロンの神託は「ソクラテスより知ある者はおらぬ」というものでした。

ソクラテスは神託に困惑し、世間で「知者」と思われている人々を訪ね、彼らの方がより知あることを証明しようとしました。

ところが、政治家、詩人、職人たちは、当初の予想に反して、本当に大切な事柄について、やはり知っていないが、自分では知っていると思い込んでいた分、ソクラテスよりも知から遠い状態にあったことが解りました。

ソクラテスは、神託の意味をこう解釈しました。真に知あるのは神のみであり、人間に許された知とは、ソクラテスのように「知らないことをその通り知らないと思うこと」にすぎない、と。

ソクラテスは自らの不知を証すために、そして人々の誤った「思い込み(ドクサ)」を取り除くために、神から与えられた使命として、対話と吟味の生を送りました。

「真に神を、その知と存在の絶対性において認めることは、逆に、人間としての自己の限界を、それとしてはっきり自覚することである。知らないことをそのとおり知らないと認める『不知』の自覚に徹し、そのなかで、どこまでも絶対的な何かの存在を信じて、それを探求しつづける。ここに、人間に許されるかぎり神に似ようと努める『哲学者』のあり方が実現する」(p103)

例えば、ソクラテスは「(政治に必要な)勇気とは何か?」と問います。問われた人はあれこれと答えるものの、いずれにも不十分な点があるとしてソクラテスに退けられます。結局、明確な答えにはたどり着くことができず、対話は「アポリア」という困惑状態に至ります。

アポリアに陥った者は、ソクラテスは本当の答えを知っているのではないか?と疑います。しかし、無知の知を自覚しているソクラテスもまた、実際に答えを知らないのです。人々はソクラテスのことを「エイローネイア(空とぼけ)」の人と呼びました。「エイローネイア」は「irony(皮肉)」の語源になっています。

プラトンの従兄であるクリティアスもまた、ソクラテスとの対話でアポリアに直面した1人です。

前5世紀末のアテナイでは、その大きな特徴であった民主政が危機を迎えており、民主派と寡頭派が対立を続けていました。前404年、ペロポネソス戦争の敗戦を契機として、ついにアテナイに寡頭政権が樹立されます。その中心となったのがクリティアスです。

元々民主政に批判的であったプラトンは、寡頭政治に大きな期待を寄せていました。ところが、彼らが「正義と思慮深さ」という理念の下に行ったのは、敵対勢力の静粛や財産没収であり、次第に一般市民を巻き込む恐怖政治へと変貌してしまいました。

勢力を盛り返した民主派はクリティアスらを敗死させ、寡頭政治はわずか8か月で幕を閉じます。

プラトンは、従兄が関わった政治が悲惨な失敗に終わったことに大きな衝撃を受けました。そして、『対話篇』の中で、クリティアスもかつて師事したソクラテスとの対話という形式を借りて、クリティアスの思想の問題点を明らかにしようとしました。

ソクラテスは、クリティアスの「思慮深さ」の理解に欠点があり、自己欺瞞的な知によって市民を支配しようとする特権意識が潜んでいたことを浮かび上がらせました。

プラトンがクリティアスの失政から学んだのは、生半可な知がもたらす危険性でした。そこで、絶対的な知、すなわち「イデア」を探求するようになります。政治は、イデアを知る哲人にしか務まらないという、「哲人政治」の発想も導かれます。

しかし、一部の限られた人が絶対的に正しいことを追求する政治というのは、全体主義的な香りがします。

一部の人だけが絶対知に至るということは、残りの人は中途半端な知にとどまるということです。だからと言って、政治があらゆる人のためのものである以上、絶対知は中途半端な知を簡単に排除することができません。中途半端な知を内包しながら絶対性を志向することは果たして可能でしょうか?

また、プラトンは政治の目的を「人々がより善く生きること」だとしましたが、より善く生きるのは絶対知を有する側であって、絶対知に従う側、すなわち中途半端な知にとどまる側は「より善く生かされる」にすぎず、政治の目的はついに果たされることがないようにも思えます。

何よりも、絶対知を求める哲人は、先ほどの引用文を借りれば「人間に許されるかぎり神に似ようと努め」ているわけですが、神に近づくことはできても神になることはできません。

ということは、哲人の知は決して絶対知ではなく、どこまで行っても中途半端な知なのであり、哲人政治の結末は恐怖政治を行ったクリティアスとさして変わらないのではないかという気もします。

全体主義は理想としては結構なのですが、本質的に論理矛盾をはらんでいます。それゆえ、最初は華々しい成功を収めても、最後は派手に破綻することを歴史が証明しています。

アメリカは伝統的に全体主義を忌み嫌っており、現在でもいくつかの全体主義的な国家を敵視しています。ところが、個人的にはそのアメリカ自身も全体主義的な思想を育んでいるように感じられる時があります。

一部の限られた人が絶対知を追求するから全体主義は論理破綻すると書きました。ならば、全員が絶対知を追求すれば問題は起きない、とアメリカの一部の人は考えているようです。

経営学の分野で2000年代から注目されている「学習する組織」、「U理論」、「ティール組織」は、まさにソクラテスのような対話を通じて人々の偏見や思い込みを取り除き、個々の違いを乗り越え、全員が意識レベルを統一させて新しい地平、標準、規範を切り拓く、という点で共通しています。

端的に言えば、全員が神を目指しています。その意味で、より高度な全体主義と言えます。しかしながら、繰り返しになりますが、人間は神に近づくことはできても、神になることはできません。結局、不完全な知が全体を破滅させるリスクから逃れることができないと思うのです。

全員の知が中途半端であることを自覚し、その中途半端な知を持ち寄って、暫定的な解を導き出しながら漸進することが、本当の意味で「より善く生きる」ことになると個人的には思うものの、世界はなかなかそう信じてくれないようです。

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