現代民主主義(ブログ用)

《要点》
◆現代の民主主義は、担い手としての市民の規範的な意味を追求しているが、20世紀前半の民主主義論の関心は、市民よりもむしろ大衆を教え導く「指導者」に向けられていた。

マックス・ウェーバーは、強大なカリスマ的資質を備えた指導者のみが、大衆を導き、官僚制を政治に従属させることができると期待した。カール・シュミットは自由主義と民主主義を区別し、自由主義の伝統に属する議会が空洞化していると批判した上で、平等に価値を置く民主主義は独裁と両立すると主張した(後のナチス支持につながっていく)。

一方、法実証主義に基づくハンス・ケルゼンは、指導者のいない民主主義を理想としつつも、現実的には複数の指導者を創造し、競争させることが重要だとした。彼の立場は、「政治的相対主義」でもある。

◆ヨーゼフ・シュンペーターは、古典的な学説が民主主義は公益を実現するためのものだとしている点を批判し、公益なるものは存在せず、また個々人の意思もそれほど合理的でないと言う。シュンペーターは、政治エリートが選挙という競争を通じて決定権を得る制度そのものを肯定した(「競争型エリート主義」)。

シュンペーターの影響を受けたロバート・ダールは、「ポリアーキー」という概念を提唱し、政治参加の程度が高度に包括的で、公的異議申し立てに対して広く開かれた政体がそれであるとした。ポリアーキーにおいては、誰もが(どの団体もが)権力を独占することはなく、多数の存在が社会を支配する。これを「多元主義(プルーラリズム)」と呼ぶ。

◆シュンペーターやダールは、民主主義を政治エリートや複数のセクターによる競争と定式化したことで、圧倒的多数の人々が民主主義のプロセスに参与できていない現状にお墨付きを与える形となった。民主主義の規範的な意味を取り戻すべく立ち現れたのが「参加民主主義」である。

キャロル・ぺイトマンはルソーを再評価した上で、国家レベルでの代表制が民主主義の全てではないとし、社会の様々な領域(例えば職場、家庭、高等教育機関など)で人々の参加が促されることが必要だとした。C・B・マクファーソンは、参加民主主義のモデルを、地域レベルの直接民主主義と国家レベルの代表制民主主義を組み合わせたピラミッド型のシステムとして構想した。

政治を市民に開かれたものとしてとらえ直す参加民主主義の理論は、公共性を再評価する議論に合流する。その代表はハンナ・アーレントである。同時に、市民のあり方を問題にする「シティズンシップ論」も発達し、T・H・マーシャルはシティズンシップの権利として、福祉国家を構成する各種制度を肯定した。

◆福祉国家が危機に陥ると、政治の正統性を取り戻すため、ユルゲン・ハーバーマスが重視する「コミュニケーション的理性」を下地として、「熟議民主主義」が模索されるようになった。「熟議」とは「皆でよく考える」という意味である。熟議民主主義では話し合いの手続きの正統性が重視され、社会的には「ミニ・パブリクス」や「討論型世論調査」として実装される。

一方、シャンタル・ムフは、熟議民主主義のコンセンサス志向や理性重視―感情軽視を批判し、「闘技民主主義」を提唱した。民主主義の本質は合意形成ではなく、対立・差異の承認にある。民主主義とは、自由民主主義の理念を受け入れた対抗者同士の闘いである。

◆ここまでの政治思想の議論では、民主主義における意思決定のプロセスに関心が向けられていた。一方、哲学の現代思想では、そうしたプロセスの手前にある、政治の(不)可能性の条件について考察するものが多い。

ジャック・デリダは、民主主義を何か具体的な政治体制や制度というよりも、常に不完全な構造から、絶えず”他者に向けて”自己を更新していくような政治のあり方だとした。これに対してジャック・ランシエールは、不可視化されていた”デモス(大衆)が主体化”し、政治の舞台に現れ、分け前を求めて係争を引き起こすような、ラディカルな契機として民主主義をとらえた。

エルネスト・ラクラウ(シャンタル・ムフの公私に渡るパートナー)は、社会における意味の空間を安定的に縫合しようとするものを「差異の論理」、差異を不安定化するものを「等価性の論理」と呼び、差異の論理が緩む中で不安定化した要素を、新しい「等価性」の下に節合する役割を担うものを「ヘゲモニー」と名づけた。ヘゲモニーは、「ラディカル・デモクラシー」という新しい左派プログラム、さらには「ポピュリズム」へとつながっていく。

《感想》
20世紀から21世紀にかけて展開された様々な民主主義の理論について、見取り図を与えてくれる1冊です。

個人的には、シャンタル・ムフの「闘技民主主義」に惹かれるものがありました。一般的には「熟議民主主義」の方が受けがよいのでしょうが(先日の記事で紹介したピーター・センゲの『学習する組織』もこの系譜に属するのかもしれません)、僕は人間とは熟議民主主義が前提とするような合理的・理性的な存在ではなく、また意思決定には感情の影響がつきものだと考えているからです。

「闘技民主主義はもうその役割を終えたのだろうか。そうではないと筆者は考える。闘技モデルの最大の貢献の1つは、社会における敵対性と多元主義、そして偶然性(偶発性)が民主主義においては不可欠であると明示した点にある」(p167-168)

僕は、多様な考え方・価値観・信条を持つ人々が、「目指す方向性はバラバラであるにもかかわらず」共存し、時には対立し喧嘩をしつつも、偶発的にポジティブな出来事が生じて、それが社会を動かすとと同時に個々人の人生を実り多いものとするような世界観を大切にしています。

これは、今や国民的俳優となった大泉洋さんの出世作である『水曜どうでしょう』から僕が学んだことです。そして僕は、この世界観を「新しい日本的経営」へと昇華させたいと目論んでいます。

昨年、「僕が『中年の危機』に陥っている」という投稿をした時、たくさんの皆様から励ましのメッセージをいただきました。その中に多く見られたのが、「気の合う仲間と飲んだり話したりしたらよい」というアドバイスでした。

もちろん、言葉をかけてくださること自体は非常に嬉しかったのですが、果たして気の合う仲間とだけつき合っていれば中年の危機を脱することができるのか?同じような境遇の人たちと傷を舐め合うだけに終わるのではないか?という疑問も生じました。

人生が豊かになるとは、考えや行動が深化することです。そして、深化のためには、自分にはない新たな角度からの視点が必要です。つまり、多様性が必要です。とはいえ、多様性を受け入れれば、自ずと摩擦も生じます。

いわゆるダイバーシティ・マネジメントにおいては、対立を弁証法的に乗り越えて共通ビジョンを打ち立てるべきだとされます。しかし、それは非常に難易度の高い経営であると同時に、せっかくの個性を殺す不穏な試みであると言わざるを得ません。

違いを無理に統合しないこと、違いを違いのまま認めること、不安定さに対して常に開かれていること、それだけで十分なのではないかと感じます。そして、これらの原則を実践する作法を「闘技民主主義」は示しているように思えるのです。

もっとも、闘技の流儀を確立することは一筋縄ではいかないことも承知しています。違いを尊重すると言っても、僕も聖人君主ではありませんから、顔も合わせたくないほど嫌いな人はいます(苦笑)。そもそも、どういう闘技なら望ましいのか?その一方で、闘技から下りるべき時、あるいは下ろすべき人があるとすればそれは何なのか?この辺りをもっと探求していきたいです。

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