
《要点》
◆1990年、北朝鮮は「第十八富士山丸事件」(1983年、冷凍運搬船第十八富士山丸が北朝鮮兵士の亡命を手助けしたとして、北朝鮮が船長他1人を抑留した事件)のカードを使って、自民党の金丸信元副総裁らによる訪朝を実現させた。この時、北朝鮮は思いがけず国交正常化を提案してきたが、自民党、社会党、朝鮮労働党の3党による「三党共同宣言」には、日帝36年だけでなく、戦後45年の謝罪と償いまでもが含まれていた。
さらに今度は、同じカードで今度は自民党の小沢幹事長を北朝鮮に招き、自社両党の代表に対して、2人の船員の恩赦に対する「礼状」に署名させ、2人の帰国により国内で反北朝鮮的世論が醸成されないよう釘を刺した。
「三党共同宣言」の内容は、その後正常化に向けた予備会談の中で軌道修正され、戦後45年の補償は交渉の議題から削除された。
◆冷戦が終結し、韓国が社会主義陣営諸国と国交を樹立するようになると、追い詰められた北朝鮮は日本との正常化に前向きな姿勢を示し、1991年後半から92年にかけては日朝関係が大きく前進する可能性があった。①正常化の際に締結されるであろう「日朝基本条約」に盛り込むべき要素が議論され、②日韓請求権協定の枠組みに倣って経済協力を行う原則も示された。
また、③南北国連同時加盟に伴って南北首相会談が再開されたこと、④盧泰愚大統領によって「南北非核化共同宣言」がまとめられたことも、交渉にとってプラスに働いた。
ところが、「李恩恵」問題(日本から拉致され、1987年の大韓航空機爆破事件の工作員である金賢姫に日本語を教えていたとされる人物)に加えて、北朝鮮のイニシアティブが金日成から金正日に移行したことも手伝って、交渉は2年弱8回で決裂してしまった。
◆IAEAによる特別査察に反発した北朝鮮は、1993年3月に核不拡散条約(NPT)からの脱退を表明し、さらに94年5月には一方的に使用済み燃料棒を取り出し始めた(軍事用にプルトニウムを抽出したのか、過去の記録が解明できなくなることを意味する)。安保理は制裁決議に向けて動き出し(実際には採択されず)、アメリカは実力行使をも辞さない姿勢を示して、日米安保条約の下で日本が具体的にどのような協力ができるのか議論された。
最終的には、11月に「米朝合意された枠組み」が成立し、①アメリカは黒鉛減速炉に代わる軽水炉を、2003年を目標に北朝鮮に供与する、②アメリカは代替エネルギーとして、毎年50万トンの重油を北朝鮮に供給する、③北朝鮮は黒鉛減速炉と関連施設を凍結し、究極的にはこれを取り壊す、④北朝鮮はNPTの締約国にとどまり、IAEAが求める保障措置協定の実施を認めることが決定した。
◆「合意された枠組み」に従って北朝鮮に軽水炉を供与するため、1995年にKEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)が発足した。途中、北朝鮮による潜水艦(スパイ)侵入事件を受けた韓国の態度硬化、資金難を解決するためのEU加盟、さらに軽水炉の経費負担の問題などをめぐって日米韓で激しく意見が対立した。とはいえ、KEDOの事業が北朝鮮と関与する貴重な機会となり、また3か国が共通の目的のために具体的な事業を推進する初めての試みとなった点は意義がある。
しかし、2001年10月に北朝鮮によるウラン高濃縮計画が明るみになって以降、KEDOの事業は頓挫した。KEDOの事業からは、①交渉・実務作業を円滑に進めるには、北朝鮮と外交関係がある国を巻き込む、②軽水炉ではなく、伝統的あるいは原子力を使わない省エネ型のエネルギー協力を模索する、③主要参加国が当該プロジェクトの経費を適切に負担し合うことが重要であると学んだ。
◆1994年7月に金日成が死去してからの数年間は、金正日にとって試練であった。経済難、食糧難とそれに伴う社会的混乱や腐敗・不正の横行を受けて、金正日は軍に依存せざるを得ず、アメリカは体制の崩壊が時間の問題であると予測していた。しかし、戦後の食糧難とその後を知っている日本は北朝鮮がそうなるとは見ず、実際97年10月には危機を乗り切って金正日が総書記に就任した。
その97年以降、日本国内では拉致問題の浮上、テポドン・ミサイルの発射(98年)、不審船の出現(99年)によって、北朝鮮に対する否定的な世論が高まった。一方、アメリカは98年11月からの「ペリー・プロセス」や2000年の「米朝共同コミュニケ」を通じて、北朝鮮との緊張関係を緩和し、北朝鮮へと急接近していく。
拉致問題は進展を見せなかったが、北朝鮮が21世紀に入る前に正常化を実現したいとのシグナルを送ってきたことから、00年4月には約7年半ぶりに正常化交渉が再開された。北朝鮮は米国との関係改善に先立ち、日本との関係改善を目指したのではないかとの指摘がある。00年6月の歴史的な南北首脳会談も、日朝関係改善にとって追い風となった。
◆2001年に誕生したブッシュ政権がアフガンに続いてイラクを攻撃したのを目の当たりにして、北朝鮮はアメリカからの攻撃を抑止するには核兵器に頼らなければならないという確信を一層強めた。一方のアメリカは、クリントン政権の過ちを繰り返さないため、二国間の直接交渉ではなく、多国間の対話枠組みに固執した。こうした中で、03年8月から六者会合(日本、アメリカ、中国、ロシア、韓国、北朝鮮)がスタートした。
北朝鮮は06年に弾道ミサイルの発射と核実験を行った。07年の六者会合における「合意文書」では、北朝鮮に対し「全ての核計画の完全かつ正確な申告」を求めた。08年に北朝鮮から申告がなされると、アメリカはその内容に対する検証措置を不十分にしたまま、北朝鮮のテロ支援国家指定の解除に踏み切ってしまった。
クリントン政権は「対話」と「圧力」を組み合わせて「合意された枠組み」を導き出した。これに対して、ブッシュ政権は最初こそ「悪の枢軸」発言で北朝鮮を威嚇したものの、実際に「圧力」をかけ始めたのは05年辺りからであり、さらに06年11月の中間選挙で民主党に敗北した後は、北朝鮮問題での成果を焦って「対話」路線へと変更した。その結果、クリントン政権末期と比べて、事態は明らかに悪化したのである。
◆2002年9月の第1次小泉訪朝では、金正日が拉致を認めて謝罪し、「5名生存、8名死亡」と回答した。「8名死亡」という結果は日本の世論を大きく失望させた。5名の帰国は同年10月に実現し、その後は平壌に残された5名の家族8名の帰国が重要課題となった。04年5月の第2次小泉訪朝では、家族5名を連れ戻し、追って残り3名の帰国に道筋をつけた。
これ以降、日朝交渉は六者会合の中に組み込まれていき、核問題と拉致問題の解決を並行して包括的に実施することとなった。ただ、日本は拉致問題の解決を北朝鮮に求めても、北朝鮮は拉致問題は解決済みとの立場を崩さず、両国は次第に身動きが取れなくなった。
08年6月、日朝実務者協議において、北朝鮮は「拉致問題は解決済み」との立場を改め、調査のやり直しを表明した。ところが、9月に入ると、今度は調査開始を見合わせた。金正日が8月に脳疾患で倒れ、危機的な状況下で弱みを見せることを避けて、むしろ強硬な対応に出たとも考えられる。
◆2014年に「ストックホルム合意」が成立し、北朝鮮は1945年前後に北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨および墓地、残留日本人、いわゆる日本人配偶者、拉致被害者および行方不明者を含む全ての日本人に関する調査を包括的かつ全面的に実施することを約束した。しかし、その後この合意は反故にされた。
北朝鮮は何らかのカードを持っていた可能性が高い。すなわち、一部の拉致被害者、いわゆる特定失踪者、行方不明者が生存している可能性が十分にあるということである。
北朝鮮に早くこのカードを切らせるため、日本側としていかなる「圧力」、「誘因」のカードを準備すべきか、よく考える必要がある。そして他の5か国との協力と理解を求める。北朝鮮と「対話」の窓口を維持しておくことも重要である。
《感想》
北朝鮮外交にあたった外交官の実録であり、随所から交渉の緊迫感が伝わる1冊となっています。1990年の金丸訪朝の際に金丸団長が一時的に”拉致”された場面や、第2次小泉訪朝の際に5名の家族を連れ戻す場面などで、北朝鮮との間で交わされた生々しいやり取りからは、「北朝鮮外交は命がけである」(「あとがき」より)ことが十分に理解できます。
「はじめに」に「本書では、1990年から十数年にわたり、断続的とはいえ対北朝鮮外交に携わった自身の経験も踏まえ、当時の状況・政策の再構築を試みようと思う。ちなみにこの時代は国際社会において、日本が北朝鮮への対応を主導あるいは準主導した時代であったと言えるかもしれない」とあります。裏を返せば、2000年代中盤以降は、日本が北朝鮮外交でイニシアティブを失っていることに対し、著者が強い危機感を抱いているのでしょう。
一般的には、南北朝鮮の分断・対立は冷戦構造の帰結であるとされています。しかし、元をたどれば、日本が朝鮮半島を植民地支配したことが遠因であり、第2次世界大戦後に半島が空白地帯となって米ソ対立を呼び込んだと言えなくもありません。「朝鮮戦争をどのように終結させるのか?」という問題も含めて、日本には是非、北朝鮮問題の解決を先導してほしいと思います。
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