◆聖書の「愛の賛歌」にはこんなくだりがある。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを〔鏡を通して、謎において〕見ている。だがそのとき〔完全なもの=神が来たとき〕には、顔と顔を合わせて見ることになる」。
「顔と顔を合わせて見ることになる」のは「神の顔」である。私は自分の顔を決してじかに見ることはできない。にもかかわらず、鏡に映った顔が自分の顔だと解るのはどうしてだろうか?さらに、私自身の顔であるとともに神の顔であるというのは一体どういうことだろうか?
◆アウグスティヌスが生きた時代は、西方ローマ帝国が衰退する一方で、キリスト教が隆盛を極めた時代であった。
かつては共同体と個人は一体と見なされていた。しかしそこに亀裂が生じ、自分のうちに無限の価値を持った何かがあるという感覚が、個々のうちに次第に膨らみ始めた。ここに、「自我あるいは人格」の誕生を見て取ることができる。個人の内面に眼を向け、そこに無限の価値を見出すには、同時にまた、たった独りでそれとともにあるような唯一の「パーソナルな神」が必要であった。
◆幼児の鏡映像への反応は、「他者への反応(4から5か月~1歳半)」、「鏡映像の探索(9か月~18から20か月)」、「自己認識」(1歳半~)という3段階に分けることができる。また、自己知覚には「生物学的自己」、「対人的自己」、「概念的自己」、「記憶された自己」、「私的自己」という5段階がある。
自己の鏡像認識が可能となるのは、概念的自己が形成される時期に該当する。鏡像を自らのものとして見るためには、自らに向けられた他者の眼差しを内面化する必要がある(他のチンパンジーから隔離されて育ったチンパンジーは、鏡像認識をすることができないという実験もある)。
一般論として、自己知覚は他者知覚と同時に存在し、他者が内在化されることで自我が生じる。しかし、アウグスティヌスが言う他者とは、誰でもよい他者ではなく、代えのきかない神である。我々が神の顔を通じて自己を知るとはどういうことであろうか?
◆アウグスティヌスの代表作の1つである『告白』のテーマは、「はじまりからはじまりへの回帰」だと言える。
私は、時間的にも空間的にも、私の始まりを問うことはできない。私は私が生まれた瞬間のことを知らない(私が生まれた瞬間のことを知っているならば、私はその瞬間より若干でも前に存在していなければならず、矛盾する)。「内への回帰」と言う場合、私は外の物体を知覚すると同時に私の身体(=内)を経験するが、私の身体はどこから始まるか?という問いに答えることもできない。
私はどこから来たのかと言われれば、宇宙から来たというのが1つの答えになるが、その宇宙もまた、時間的・空間的な始まりを特定することができない。だとすると、私や宇宙を超越したところに、始まりとしての神を見出さざるを得ない。
◆聖書には、神は自らに似せて人間を造ったとある。果たして、神が私に似ているのか?私が神に似ているのか?「AがBに似ている」という表現には、新奇なもの(A)が馴染みのあるもの(B)に似ているというニュアンスがある。ひとまず、私にとって馴染みのあるのは私の方だから、神が私に似ていると言えなくもない。
しかし、私が馴染みのあるものであると同時に、私にとって不可解なものとなったらどうであろうか?(鏡に映った私は、左右反転しているという点で本当の私ではなく、実は鏡を見ても私を知ることはできない)その場合、私について語られた言葉を信じるしかない。それは誰の言葉でもよいわけでなく、私が愛する人の言葉、すなわち神の言葉でなければならない。私は誰を愛するのかが解れば、自己への問いは解けたも同然である。
とはいえ、神を愛するとはどういうことであろうか?私が神を愛する時、私は何を愛しているのか?謎は解かれたのではなく、むしろ「そのとき」が訪れるまでは、決して完全には答えられない問いとして開かれたのである。
《感想》
「私のことは私が一番解っているようで、実は未知の部分も多い。私が私を理解することは、他者を理解することと同時に進行する。ただし、その他者は誰でもよいわけではない。私が愛する人(=神)でなければならず、神の言葉をいったん受け取って、それを自分の元に引き寄せる必要がある」。そんな内容の1冊だと認識しています。
ビジネスの世界で有名なフレームワークの1つに「3C分析」があります。Company(自社)、Customer(顧客)、Competitor(競合他社)の視点から経営環境を分析し、戦略的方向性を導出するためのツールです。この3つのCをどの順番で分析するかは、人によって意見が分かれるところです。
僕は、Company⇒Customer⇒Competitorの順番だと思っていました。というのも、まずは自社の経営理念や強みをはっきりさせることで初めて、「経営理念を実現する上で重要な顧客は誰か?」、「自社の強みが活きる顧客は誰か?」と問うことができるからです。その上で顧客分析を行い、同じ顧客ニーズを狙う競合他社の分析へと移行できるからです。
しかし、本書を読んで、3C分析には決まりきった順番はないのかもしれないとも感じました。まず、神様であるお客様を理解することで自社の理解が深まるという「反射」があります。加えて、「汝の敵を愛せよ」という聖書の言葉に従うならば、競合他社もまた自社が愛すべき相手であり、競合理解が自社理解をもたらすという側面もあります。
そもそも自社を理解するとは、①我々の経営理念(=実現したい世界)は何か?②我々がその世界に向けて提供する価値は何か?③価値の源泉となる強みは何か?④その強みはどのような組織風土(組織の価値観、行動規範など)に立脚しているか?という4つの問いに答えることだと考えます。
これらの問いに対しては、自社が自ら答えるだけでなく、顧客がその答えを教えてくれることもあります。顧客は自社に意外な価値を求め、意外な強みを認めているかもしれません。また、競合他社が提供している価値や競合他社が持つ強みを基準として、自社の提供価値や強みを再定義することもできるでしょう。
むしろ、顧客分析や競合分析を通じて、自社理解に「驚き」をもたらすものがなければ、それは凡庸な分析にすぎないと言い切ってよいのかもしれません。
驚きは「経営理念―提供価値―強み―組織風土」という自社理解に「揺らぎ」を生じさせます。揺らぎはとりわけ経営理念の再構築を要求します。すると、今度は新たな経営理念が新しい顧客を必要とします。それは同時に、別の競合他社を想定しなければならないことも意味します。
新たな顧客の分析と新たな競合他社の分析は、さらに深い自社理解をもたらす可能性があります。自社分析、顧客分析、競合分析は有機的に連動しており、どこまでも深く探究することが可能な1つのシステムと言えるのかもしれません。
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