水曜どうでしょうのしくみ(ブログ用)

《要点》
◆ある長い道のりの中で起きたことを、何が重要で何がそうでないかをその場では区別せずにそのまま記録していき、後からまとめて提示することで何らかの意味が立ち上がってくるという点では、「水曜どうでしょう」と臨床心理学における「事例研究」は似ている。

◆表面的に言えば、どうでしょうという番組で流れているのは、何らかの企画を行うという「物語」である。原付バイクで西日本を制覇する、アラスカにオーロラを見に行く、などである。しかし、同時進行的に、「物語についての物語」=「メタ物語」も流れている。それは、「物語」を撮るために旅に出て、そこで右往左往する男たちの物語である。「物語」と「メタ物語」という二重構造が、どうでしょうを支えている。

◆嬉野Dの画角には様々な意味がある。敢えて被写体(出演者)をカメラで追わず、フレームを固定する場合は、物語が終わらず、一連として続いていることを示す。出演者のやり場のない中途半端な心情を表す時には、意図的に出演者と中途半端な距離を取る。逆に、大泉洋さんに(ズームではなく)カメラが肉体性を伴って寄っていく場合には、D陣と大泉さんとの間で音楽的な相互作用を生み出す効果がある。

◆嬉野Dは、「反復が気持ちいい」と同時に「反復を嫌う」という、一見矛盾したことを言っている。これは、「物語」レベルでは反復されていないが、「メタ物語」レベルでは同じことが反復されていると解釈すれば納得がいく。

どうでしょうを特徴づけるのは、偶然性の高さである。だが、我々の日常の中で偶然の出来事というのは絶えず起こっているのであり、それをとらえる側がきちんと構えていないととらえられない。そのためには、偶然が起きやすい状況を作ることが大切で、①物事をコントロールせず、②理由づけせず、③その場で決めることがカギとなる。

ただし、本当に偶然任せにするとわやわやになって見ていられなくなる。どうでしょうの4人にはそれぞれ役割があり、何かがあった時にはどうすればよいのかということをそれぞれが解っているという一種の「枠」がある。言い換えれば、「物語」レベルでは偶然が支配しているが、「メタ物語」レベルでは必然が担保されている。

◆前述の通り、どうでしょうの4人にはそれぞれ役割がある。大泉さんは「物語」から「メタ物語」の方に飛び出す役者、藤村Dは「メタ物語」から「物語」の方に飛び込むディレクター、ミスターは「物語」の向こうへ突き抜けてしまう役者、嬉野Dは「メタ物語」のこちらに突き抜けてくるディレクターである。

2人のディレクターに関してさらに言えば、藤村Dは「直接的、体当たり、時間的、自分の外側に関心が向く、論理にこだわる、疑問形をあまり使わない」という特徴があるのに対し、嬉野Dは「間接的、距離を気にする、空間的、肉体がない、自分の内側に関心が向く、論理にこだわらない、疑問形を多く使う」という特徴がある。正反対の特徴を持つ2人が新しいものを生み出している。

◆視聴者がどうでしょうの2つの物語を見るということは、視聴者―メタ物語―物語という3層構造が成立していることを意味する。ここで、見る―見られる関係というは、<視聴者→(メタ物語+物語)>という関係と、<メタ物語→物語>という2つがある。

ところが、視聴者は3層構造を意識しておらず、2層しかない、つまり見る―見られる関係が1つしかないと意識している。すると、視聴者は「メタ物語」と同じ立場に立つことになり、一緒に撮影しているように感じる。これが番組の「身内感」を生み出していると考えられる。

◆今の世の中は「解りやすさ」が求められることが増えているが、「解りやすさ」はコミュニケーションを終了させてしまう。何かとかかわりを持ち続けるには、そのことに対して「解らない」ということが1つの原動力になる。しかし、我々は「解らない」状態が苦手である。どうでしょうは、面白さが「解りにくい」ということそれ自体が解りにくく、一見解りやすく感じられるので、「解りにくいもの」と負荷なく付き合うことができる。

◆どうでしょうとカウンセリングは似ている。番組制作で最初に面白さを目的に設定すると、あるいはカウンセリングで最初に治癒を目的に設定すると、かえって損なわれていくものがある。初めに想定したものは状況や時間によって変化していく。「もやもやしたもの」や「得も言われぬもの」、すなわち「可能性の雲」と付き合いながら、結果的に番組が面白くなれば、あるいは相談者の悩みが消えればそれでよい。

《感想》
どうでしょう好きのカウンセラー&研究者が、藤村D・嬉野Dへのロングインタビューを実施し、番組の面白さを臨床心理学的に分析した1冊です。

どうでしょうは「物語(=「旅をする」という本来の企画)」と「メタ物語(=「物語」を撮りに行って右往左往する4人の物語)」から構成される二重構造になっており、「メタ物語」が面白さを提供しています。この点で、どうでしょうは、完成品ではなく「制作過程」に対して顧客に価値を感じてもらう「プロセスエコノミー」の走りだと言えます。

どうでしょうの影響で、4人と同じように行き当たりばったりの旅を配信するYouTuberが増えました。ただ、どうでしょうほどにはなかなか面白くなりません。

その要因として、どうでしょうの場合は、①視聴者を「メタ物語」と同じポジションに位置づける工夫が番組の「身近感」を提供していること、②「物語」は偶然性に左右されるが、「メタ物語」は4人の役割によって必然性が担保されており、破綻がないこと、③4人の役割によって「物語」と「メタ物語」にさらなる「立体感」が生み出され、番組の奥行きを増していることなどを挙げることができるでしょう。

個人的にさらに重要だと感じたのは、「面白い番組を作ろう」、「カウンセリングで相談者を治そう」といった具合に、最初に目的を設定して、そのためにどうすればよいかと考え、行動すると、かえって期待した成果が得られなくなることがある、という指摘です。

本書で語られているどうでしょうの面白さの秘訣は、2人のディレクターが番組制作の当時から意識していたことではありません。著者との対話を通じて、後から「立ち上がってきた」ものです。著者にしても、「どうでしょうの面白さを明らかにしよう」という目的を持ち、面白さの仮説を立てて2人にぶつけるという、研究における王道的なやり方は採用していません。ナラティブなやり取りの中から、結果的に本書が「でき上がった」と言う方が正確でしょう。

それがいいのです。たとえ目的が曖昧であっても、状況や枠を上手に設定し、①物事をコントロールしない、②理由づけしない、③その場で決めるといったいくつかのルールさえ守れば、偶然の産物が生まれます。目的志向だけが成果を上げる道ではないと知ることは、人生に豊かな選択肢をもたらしてくれます。

僕は最近、近所の古民家カフェで定期的に開催される読書会に参加しています。毎回、参加者が好きな本を持ち寄って、本の内容や感想を共有するという集まりです。先日の読書会で僕は本書を紹介しました。すると、他の参加者から、「どうでしょうは『オープンダイアローグ』に似ていますね」というフィードバックをいただきました。

オープンダイアローグ(OD:Open Dialogue)とは、1980年代にフィンランドの西ラップランドにある精神病院・ケロプダス病院で開発された手法で、「開かれた対話」を意味します。統合失調症の他、うつ病、PTSDなどの治療に取り入れられています。

ODは、診察室で医師と患者が行う「会話」とは異なり、患者とその家族や友人、精神科医に加えて臨床心理士や看護師といった関係者が1カ所に集まり、チームで繰り返し「対話」を重ねていくというものです。

精神科では、周囲が治そうと頑張りすぎるほど治りにくくなる、ということがしばしば起こります。ODでは、問題点を指摘したり診断をするといった価値判断を一切手放し、ただひたすら対話を続けることに没頭します。だから、アドバイスも議論も説得もしません。

とにかく「対話を続けていく」。すると、その副産物として勝手に治癒したり、解決したりということが起こります。しかし、それはあくまでもおまけであり、最初から「治そう」という目的を設定していると、逆に回り道になってたどり着かなくなります。「治そう」、「よくなろう」という下心を捨てて、対話のプロセスに没頭していくことが重要です。
(《参考》https://project.nikkeibp.co.jp/behealth/atcl/feature/00003/091500233/)

こういう世界観は確かにどうでしょうと共通していると感じました。

#本の紹介
#ビジネス書
#読書
#読書記録
#本が好き
#本好きな人と繋がりたい
#読書倶楽部
#本スタグラム
#読書男子
#本のある生活
#おすすめ本
#やとろじー
#経営
#ビジネス
#経営コンサルタント
#経営コンサルティング
#コンサルタント
#コンサルティング
#中小企業診断士
#診断士