偶然とは何か(ブログ用)

《要点》
◆本書では、偶然とはもっぱら「因果的偶然」に限ることにする。すなわち、起こること、あるいは起こったことについて、科学的・論理的に必然性が示されないような事象を偶然と言うと定義する。

ニュートンは、厳密に数学的に記述される基本法則によって、無限の過去から無限の未来まで決定されるという宇宙観を打ち立てた。全ては必然であり、そこには偶然の入り込む余地はない。ラプラスは、「完全な知性にとって不確かなものは何一つないであろうし、その眼には未来も過去と同様に現存することであろう」と述べている。

しかし、完全な知性とは何であろうか?それは神の別称ではないか?宇宙の全てを予測する巨大コンピュータのような神は、宇宙のどこにいて、何からできているのか?宇宙の全ての情報を扱うには、メモリが絶対的に足りないのではないか?結局のところ、理論とは現実を理想化し簡単にした上で、現実をより少ない情報量で記述するものである。したがって、現実は理論から「はみ出す」部分を含んでおり、それが偶然として現れる。

◆偶然現象について、その出現の可能性の大きさを数量的に表現したものが確率である。確率の解釈には、客観確率(このサイコロを多数回振ると、1から6の目が出る回数がほぼ等しくなる)と主観確率(1から6の目が出ることはそれぞれ同程度に確からしいと思われる)があるが、両者の間に根本的な矛盾はない。

問題は、「偶然」を表現するものとして確率を考えた時、それをどう考えたらよいか?ということである。決定論者であるラプラスは、偶然とは「無知」から生じるとした。この考え方からすれば、偶然を数量的に表現するものは主観確率に他ならない。しかし、「無知」という消極的な条件から、確率論の重要な定理の1つである大数の法則(1の目が出る比率が1/6の近くに入る確率は、サイコロを振る回数が大きくなれば1に近づく)のような積極的な結果を得ることは無理ではないだろうか?

やはり、「偶然」を数学的に表現したモデルとしての確率概念は、客観的な現象を記述したものでなければならない。それはランダムな変動を表現したものである。「偶然」と見なされる現象が、実際にランダムな系列を生じるかは論理的に証明できないので、経験的に検証するしかない。

◆20世紀になって、統計学において、偶然性(ランダム性)を排除するのではなく、積極的に利用する方法が生み出された。確率モデルを用いた統計的方法について注意すべきは、それは決して一義的な「科学的結論」を与えるものではなく、偶然的な変動を含むデータから可能な限り合理的な判断を下すための一段階であるということである。

ネイマンは統計的方法は帰納論理を表すものではなく「帰納的行動」を示すものであると主張したが、ネイマンの考え方は統計的品質管理のように大量生産工場において多数のロットを処理する場合にあてはまる。これに対してフィッシャーの考え方は、実験結果から客観的判断を下す時の論理を表すものであり、またベイジアン(ベイズ派)の論理は偶然変動を含む場に直面して行動する主体(個人・企業)の立場を表していると考えられる。

◆ダーウィンは、突然変異という偶然が、自然選択というふるいにかけられながら累積していくことによって、新しい種を生み出すという創造がなされると主張した。そこでは、偶然は無知に基づく予測不可能性でも、あるいは必然性からの単なる逸脱でもない、積極的な役割を果たしている。これは、ニュートン物理学の機械的な宇宙観には全くない考え方である。

偶然の蓄積する様式は、偶然が相互に打ち消し合う加法的な、大数の法則や中心極限定理が成り立つようなものだけではない。偶然の影響が強め合うような、乗法的な場合も存在する。その場合には、偶然の累積によって、変化が特定の方向にどんどん進んでいくこともあるのである。

生物は偶然によって進化するが、人類の歴史は必然だろうか、偶然だろうか?歴史上の偶然とは、生物の進化の過程でたまたま新たな形質を生み出した突然変異のようなものである。一方で歴史の必然性とは、偶然から生じる必然をもたらすもの、あるいは偶然から生まれる必然の方向性を与えるものであると考えられる。それは生物の突然変異から自然選択を通して進化の必然が生まれることに通じている。

◆偶然を確率論のモデルによって数学的に把握し、それに基づいて期待利益(または期待効用)を最大にするような方法を求める「不確実性の下における意思決定の理論」を構築することで、人は偶然といういわば「気まぐれ」な要素を排除して合理的に行動することが可能になったと言われることがある。

それでも人は「幸運」や「不運」に遭遇することは避けられない。人生において「運」、「不運」はそれぞれに1回限りのもので、相互に打ち消し合うものではないから、大数の法則は成り立たない。事後に結果としての「運」、「不運」をどう扱うかは、事前にそれをどう処理するかとは別の問題である。重要なのは、「運」や「不運」を他人と分かち合うことである。

偶然は人生に不安や失望をもたらすが、しかし同時に全てが必然であり予測可能であったら、人生は「夢も希望もない」であろう。不確実な未来に直面することは、現実に起こるであろうただ1つの可能性以外に多くの可能性を想像することを意味し、それだけ想像の世界を豊かにするのである。そのことはそれだけでプラスの意味を持つ。

◆19世紀にケトレーが社会物理学を確立して以来、20世紀前半の「規格化された大量」の時代までは、大数の法則と平均が支配する時代であった。しかし、20世紀後半に情報技術が発達し、量から質への転換がなされると、大数の法則と平均の時代は終わりを迎えた。

ジャンボ機や人工衛星、スーパーコンピュータのような超複雑なシステムにおいては、事故は「絶対に起こってはならない現象」であり、大数の法則とは異なる管理が必要となる。また、超複雑なシステムを利用する側も、「極めて小さい確率はゼロと見なす」ことを行動原理としなければならない。

21世紀は、一方では「確実性」が追求される時代であるが、しかし偶然はそれで消し去ることができるものではない。むしろ、統計的に「誤差」や「ばらつき」としてとらえられ、したがって大数の法則によって「飼いならす」ことが可能な偶然とは違った、また別種の偶然が存在し、それが大きな意味を持つことはますます明白になっている。

《感想》
僕は以前から、経営理念を強みに基づいた合理的戦略で実現する「伝統的経営(ドラッカー的経営)」に対して、偶然や直感を重視する脱目的的な幸せの経営としての「新しい日本的経営」があるのではないか?と考えています。

「新しい日本的経営」は、僕が大好きな「水曜どうでしょう」からヒントを得ています。「水曜どうでしょう」という番組は、偶然に偶然が重なって、当初の企画からは全く予期せぬ方向へと面白おかしく話が展開していく点が魅力です。さらに言えば、番組の枠を超えて、全国のどうでしょう藩士(熱烈なファンや支持者のこと)が次々とつながり、新しい商品やイベントなどが生まれ、一種の「どうでしょう事業」を形成しています。同じようなことができたら、もっと多くの人が楽しく仕事に打ち込めるに違いありません。

本書は偶然について、主に確率論の立場から記述した1冊です。確率論の細部は文系出身の僕には理解できませんでしたが、大数の法則や中心極限定理のように、試行を何度も重ねれば結果がある程度予測できるようになるというのでは、予想外の結果を追求する「新しい日本的経営」にはなりません。

しかし著者は、偶然が相互に打ち消し合うような加法的な場合だけでなく、相互に強め合うような乗法的・累積的な場合には、変化が特定の方向にどんどん進んでいくと言います。そして、現代は統計学によって「飼いならす」ことができる偶然とは別種の偶然が存在し、その偶然の意味がますます大きくなっていると結論づけています。僕はこうした偶然を「新しい日本的経営」の中で積極的に活用したいと思います。

以前、「伝統的経営のPDCAサイクル」と対比させる形で、「新しい日本的経営のSTARサイクル(試案)」を示したことがあります。Situate(状況を作る)⇒Tramp(放浪する)⇒Active Feedback(前向きにフィードバックする)⇒Relate(他者を結びつける)の頭文字を取ったものです。

「水曜どうでしょう」で言うと、まずは「どこかに旅に行く」という企画が設定されます(=Situate)。しかし、企画自体を完遂するつもりはどうでしょう班の4人(時に安田顕さんを加えた5人)には毛頭なく、旅の途中であちこちに寄り道をします(=Tramp)。Trampの過程で偶然に偶然が重なって爆発的な笑いを生み出すのですが、話はここで終わりません。

番組のDVDでは、副音声で4人(ないし5人)が延々とお互いのことを評価し合っています(肯定的な話もあれば、番組と同様の罵り合いに発展することもあります、笑)(=Active Feedback)。そして、こうした番組の魅力に惹かれた藩士がどうでしょう祭りやどうでしょうキャラバンなどを介してつながり(=Relate)、どうでしょう事業がどんどん発展していく、というわけです。

今回の記事では、STARサイクルのうち、SituateとTrampについて補足したいと思います。確率論的な難しい話はいったん脇に置いて、シンプルに偶然を「予期せぬこと」と定義するならば、予期せぬことに遭遇する、あるいは予期せぬことを敢えて起こすには、最初に「一定の予期」が存在することが前提となります。それが、STARサイクルで言うところのSituateに該当します。

僕は、「新しい日本的経営」だからと言って、事業計画を完全に否定するつもりはありません。計画はやはり必要です。しかし、作り込まなくてもよいと言いたいのです。予期せぬことを増やしたいならば、計画を緻密に作ればよいのではないか?と思われるかもしれません。ところが、計画が精緻であればあるほど、現実が計画から逸脱した時に、現実を無視して計画を墨守しようとする傾向が人間には備わっています。これは、旧ソ連の計画経済の失敗が示していることです。だから、最初の計画は「だいたい」で十分です。

おおよその計画を作ったら、後はその計画からの逸脱を肯定的にとらえます(Tramp)。この点が、計画通りの実行をよしとする「伝統的経営」とは大きく異なる点です。計画とは、ターゲット顧客に対して標準的なオペレーションで価値を提供することであるとするならば、計画からの逸脱にはいくつかのパターンがあります。

20241202_偶然につながる逸脱のパターン

①顧客に関して
 ⅰ)ターゲット顧客から外れる顧客との付き合いを大切にしてみる。
 ⅱ)想定していたニーズとは異なるニーズを充足してみる。
②オペレーションに関して
 ⅰ)イレギュラーな手順で価値を提供してみる。
 ⅱ)決められた予算を度外視して価値を提供してみる。

逸脱には、偶然そうなった場合(例:たまたま、ターゲット外の顧客が店舗にやってきた)と、敢えて偶然を引き起こした場合(例:意図的にイレギュラーな手順を踏んでみた)がありますが、どちらでも構いません。重要なのは、逸脱を1回限りで終わらせず、「重ねること」です。すると、偶然が偶然を呼び、予期せぬ創造へとつながります。

「水曜どうでしょう」の場合も、「偶然の出来事を執拗につつく」という現象がしばしば見られます。「シェフ大泉夏野菜スペシャル」では、頼んでもいないのにパイ生地を2回も練ってもらった大泉さんを藤村Dが執拗にいじった結果、「おい、パイ食わねぇか」という名言が生まれました。「原付西日本制覇」でたまたま始まった甘いもの早食い対決を執拗に繰り返した結果、後にそれをメインに据えた「対決列島」という名作へとつながりました。乗法的・累積的な偶然が新しい方向性を生み出した好例だと思います。

ここで「なぜ、計画があるのに、わざわざ逸脱しなければならないのか?」という疑問を持つ方もいるでしょう。この問いに対しては、「意味がないのが偶然なのだから、その問い自体が野暮というものだ」と返すより他にありません。斬新な創造は余白や非効率のような辺境から生まれるものです。

企業は他社との「差」がなければ顧客から選ばれません(以前の記事で「ロバのビュリダン」という寓話を紹介しました)。「伝統的経営」では、競合他社との差別化要因をあらかじめ戦略的・意図的に設計します。これに対して、「伝統的経営」ほどの戦略構築能力を前提としない「新しい日本的経営」においては、偶然に偶然が重なって創造性が発揮された結果として、他社との差別化要因が形成されればよいと考えます。

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