
土浦一高(※土浦市の公立高校)文芸弁論部ががばんクリエイティブルームで主催した「哲学カフェ」に行ってきました。一高の文芸弁論部は、普段から部活動として部員同士で哲学カフェを行っているそうなのですが、今回初めて一般市民も参加可能な形で開催するということで、僕もメンバーに混ぜてもらいました。
哲学カフェとは、「怒ること、叱ることの違いとは?」、「生成AIと人間の違いとは?」、「社会と世間の違いとは?」、「親友とは?なぜ人は人と関わるのか?」などのような、身近で何気ない疑問を持ち寄り、改めて問い直してみようとする場所です。哲学という名前はついていますが、決して専門用語は使わず、参加者同士が互いの意見を尊重し合いながら、対話を進めていくのが基本的なルールとなっています。
今回のテーマは、ちょうど思春期を迎える高校生に、一高OBと一般参加の大人が数名ずつ加わっていたこともあって、「大人とは何か?」というテーマでみっちり3時間以上対話をしました。
高校生も皆、自分の意見をしっかり持っていて、次々と発言を重ねていきますし、解らないことがあればすぐに質問をするインタラクティブ性の高さにも感銘を受けました。自分が高校生の時には絶対にこんなことはできなかったでしょう。
加えて、こういう「答えのない問い」を考える際には、敢えて「極端な事例」を提示して思考の枠を広げることが1つのカギなのですが、ある人が「扶養されている人が子どもで、扶養する人が大人だ」と言えば、「扶養されている大人の障害者はどうなるのか?」と問い、またある人が「仕事によって社会に貢献する人が大人だ」と言えば、「児童労働はどうとらえればよいのか?」と問い返すようなシーンもあり、成熟した思考を感じました。
哲学カフェでは、「個人的な秘密を守る」というのもルールの1つになっているため、今回の記事では、哲学カフェの中での具体的なやり取りにはあまり触れずに、哲学カフェを通じて「大人とは何か?」について、僕なりに考えたことをまとめてみたいと思います。
12/14(土)、哲学カフェとは、「怒ること、叱ることの違いとは?」、「
今回のテーマは、ちょうど思春期を迎える高校生に、
高校生も皆、自分の意見をしっかり持っていて、
加えて、こういう「答えのない問い」を考える際には、敢えて「
哲学カフェでは、「個人的な秘密を守る」というのもルールの1つになっているため、今回の記事では、哲学カフェの中での具体的なやり取りにはあまり触れずに、哲学カフェを通じて「大人とは何か?」について、僕なりに考えたことをまとめてみたいと思います。
大人という概念は多義的であり、僕の見方はその一面にすぎないことをあらかじめ断っておきます。また、子どもから大人になる段階に関しても、発達心理学などにおいて様々な知見が既に蓄積されていることでしょうが、そうした専門知識にも踏み込まず、僕の実感をベースに書いていることをご了承ください。
我々は、「あの人は子どもっぽいよね」と言うことがあります。この場合、ポジティブな意味合いとしては、その人に自由な遊び心があるということを表し、逆にネガティブな意味合いとしては、その人の未熟さ、わがままぶりを指しています。よくも悪くも、自分のことを中心に考えている、自分の好きなことを好きなようにやっているのが子どもだと言えます。
また我々は、「もっと大人になれ」と言うこともあります。この言葉は、もっと分別を持てということを意味しています。分別があるというのは、社会や組織、集団が設定したルールに従ったり、上司や顧客、家族やコミュニティなどからの期待や要求に応えたりすることです。端的に言えば、他者のことを中心に考えられるのが大人だということでしょう。
ひとまず、自分のことを中心に考えるのが子ども、そして他者のことを中心に考えるのが大人であり、子どもから大人まではグラデーションのように発達していく、という図式になりそうです。客観的には、満18歳という年齢基準によって、ある時を境にすぱっと大人(成人)になるわけですが、主観的には子どもと大人をきれいに区別することはできません。
とはいえ、個人的には、このシンプルな図式にズームインしていくと、もっと複雑な様相が見えてくるような気がします。
本当に幼い子どもは、自分のことを中心に考えているに違いありません。そして、自我が芽生えるにつれて、自己中心ぶりは強化されていきます。しかし、年齢を重ねるうちに、親や学校、コミュニティや社会から「ああしなさい、これをしてはダメ」という要請を強く受けるようになります。強化された自己は、強化された他者からの突然の要求に戸惑い、反発を覚えます。これが思春期です。
しかし、思春期も長くは続かず、やがては他者からの期待を受け入れていきます。社会人となり、企業や組織に属するようになれば、顧客のニーズに応え、企業の方針を守り、上司からの指示に従うことが普通となります。一般的には、この段階で「大人になった」と言われます。
ただ、他者のことを中心に考えていれば本当に大人なのか、僕は敢えて疑問を呈したいと思います。他者のことを中心に考えているというのは、悪く言えば自分というかけがえのない存在が社会や組織の歯車になっており、顧客のニーズや上司の要求を満たす手段になり下がっている状態でもあるからです。
フリーランスの中小企業診断士として独立する前、僕は企業向けに経営コンサルティングと教育研修を提供する会社に勤めていましたが、研修ラインナップの中に、ミドル層(30~40代)をターゲットとしたキャリアデザイン研修がありました。この研修で、受講者であるミドル層に対し、「自分が”実現したい”キャリアを自由にデザインしてみよう」というワークを実施すると、多くの企業では受講者の手が止まります。企業に従順であることが当たり前になりすぎて、自分の主体性を見失っているのです。
これは、大人であること以前に、人間であることを否定された状態です。僕はそれを大人と呼んではいけないと思います。大人も自分の意思をもっと大切にするべきです。逆説的ですが、大人にも子ども心が必要なのです。
とはいえ、ここで大人にとっての子ども心を強調しすぎると、別の悲劇が起きます。ミドル層は既に管理職など一定の地位や役職についていることが多いのですが、「自分のやりたいことを実現することが大事だ」などと言いすぎた結果、管理職の権限を逆手にとって横暴な振る舞いをする人が現れます。他者に従順すぎるのが問題である一方で、自分ばかりが尖りすぎるのも考えものです。
僕は、「大人になる」の意味に非常に近いのが、「丸くなる」という言葉だと考えます。丸くなるというのは、尖りすぎた自分の角が取れることです。別の言い方をすれば、自分の意思と他者からの要請との間に折り合いをつけること、両者を調和させることです。
僕は、いつまでも子ども心を忘れない大人を素敵だと感じます。そして、それ以上に、子ども心を持ちつつも、それを他者との関係の中で上手に運用できる大人のことを尊敬しています。
そういう人には、自ずと別の他者が集まってきます。すると、増えた分の他者の要求も考慮しなければなりません。これは一筋縄ではいかない仕事です。しかし、それでもなお自分の意思を埋没させず、それを多様な他者からの期待と統合して成果を出せると、大人の階段をまた1つ登ったことになります。さらに別の他者が集まってきたら、さらに自分の意思を固め、それを大勢の他者からの期待と接続させる。この繰り返しです。結局のところ、大人になることにゴールはないのです。
余談ですが、僕が自己紹介の時に「
顧客に価値を提供するとはどういうことか?
高校1年生でもこういう話が普通に通じるのだと、
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