企業とは何か(ブログ用)
《要点》
◆本書の問題意識は、アメリカの自由企業体制において、現在のアメリカのリーダー的地位にあるアメリカの大企業が、政治的、経済的、社会的にいかに機能すべきか?にある。

本書では、企業の政治学的分析を次の3つの側面から行う。すなわち、Ⅰ.企業がいかに事業体としての機能を果たすか?、Ⅱ.いかに社会の信条と約束の実現に貢献するか?、Ⅲ.いかに社会の安定と存続(言い換えれば、社会の効率)に寄与するか?である。これら3つの側面は調和させることが求められる。

【Ⅰ.企業がいかに事業体としての機能を果たすか?】
◆企業の本質は、ゴーイング・コンサーン(継続的事業体)としての社会的存在である。そして、企業とは決して機械や原材料の集積ではなく、人間組織である。他のあらゆる人間組織と同様に、企業の存続と成功は3つの問題の解決に関わっている。

それはつまり、①ごく平均的な人間によるリーダーシップで足りるよう、十分な数のリーダーを育成すること、②組織が変化するために、また短期と長期のバランス、管理者的立場と企業家的立場とのバランスを取るために経営政策を立てること、③組織に属する人間の意思決定と成果を、外的な要因の影響を取り除いて客観的に評価する尺度を設定すること、である。

◆GM(ゼネラル・モーターズ)は、これらの問題を解決するために分権制を採用した。事業部に最大限の独立性と責任を与えつつ、全体の一体性を保持した。本社経営陣は、事業部経営陣を助けるという意味で助手であると同時に、全体のボスである。本社経営陣は、全社および事業部の目標の設定、事業部長の権限範囲の決定と事業部長の任命、事業部の業績と問題のチェック、生産と販売以外の活動、スタッフ部門による助言と助力を行う。

あらゆる決定と情報は、本社経営陣と事業部経営陣との間を双方向に流れている。よって、経営幹部の全員がGM全体および各事業部の経営政策と問題を熟知している。そして、経営政策や意思決定の有効性が、コストとシェアという客観的な尺度によって評価されている。

◆GMの強さは、絶対的な計画ではなく、原理や概念を具体的な行動の指針として使うことによってもたらされている。しかし、分権制が完全に実施されたとしても、解決の困難な問題が2つ残る。

1つ目は、下の階層で必要とされるスペシャリストを、総合力のあるゼネラリストとしてのリーダーへといかに育成するか?である。ジョブローテーションやスタッフ部門での経験を通じてゼネラリストを育成するという考え方と、初期においてはスペシャリストとしての教育が必須であるとの立場がある。

2つ目は、極めて特殊な環境に置かれている経営幹部の隔離孤絶をいかに防ぐか?である。GMでは、ユーザ関係、ディーラー関係、コミュニティ関係、パブリック関係、労使関係の分野で具体的なプログラムを開始し、経営陣に多様な視点を持たせようとしている。

◆自動車メーカーとディーラーは、販売に関する契約や政策をめぐって利害が対立する。GMは、ディーラー事業部を通じて分権制をディーラー関係にも適用することで、ディーラー関係を対立から調和へと変えることに成功した。分権制は組織構造上の手法であることを超えて、産業秩序の一般原理の1つであることを示している。

◆分権制は、本社経営陣と事業部経営陣との関係よりも下のレベルでも適用され得るし、他の産業にも適用し得る。では、分権制の利点とは何か?分権制が集権制より優れているかが重要なのは、事業のマネジメントにおいてではない。それは、自由企業体制が社会主義体制よりも優れているか?という問題と同じ種類の問題である。

集権制は、コストと市場という二重のチェックを受ける分権制には劣らざるを得ないという説明では、分権制の利点を消極的に証明したにとどまる。真に分権制が優れているのは、多くのリーダーを育成できるからである。組織にとっては、リーダーを育てることの方が、製品を効率よく低コストで生産することよりも重要である。

【Ⅱ.いかに社会の信条と約束の実現に貢献するか?】
◆アメリカの伝統では、社会的組織は社会を超えた目的のための手段である。アメリカ社会の基本は、個としての人間の重視という、際立ってキリスト教的な思想である。ここから、社会の代表的組織である企業は、機会の平等を実現し、人間の尊厳を確立させるという2つの約束を果たさなければならない。それが、アメリカの中流階級社会の成否を握っている。

機会の平等とは、結果の平等のことではない。社会的な地位は1人1人の人間の能力と成果によって得られなければならない。昇進の機会は誰に対しても開かれていなければならず、客観的で合理的な人事システムを確立する必要がある。とはいえ、全ての人が昇進し、高い収入を手にするわけではない。そこで、人間の尊厳が問題となる。仕事の意味づけを行い、働く人に社会的・心理的満足を与えることで、社会における彼らの位置と役割を明確にすることが同時に求められる。

産業社会の中流階級とも言うべき職長と時間給の平の工員とでは、解決すべき問題はかなり違ったものになる。職長については、問題は主として人間の尊厳に関わるものである。GMでは、職長に対して、経営管理者になるための訓練を施し、職長を管理職会議に出席させるなどして、昇進の機会を平等に開いている。

一方で、現実の職長の仕事は経営管理者やスタッフ部門に奪われ、縮小している。職長の尊厳の問題は、経営側の努力だけでは解決できない。職長の地位は、経営側との関係においてと同時に、部下の工員の地位によって決まるからである。したがって、一般の工員が産業社会において位置と役割を持つことで、職長の地位も確立されることになる。

◆平の工員については、位置と役割に加えて機会の平等も問題となる。工員に対して機会の平等を与える方法にはいくつか考えられるが、GMではGMインスティテュートが工員を対象とした訓練を実施し、修了者に職長への昇進を用意しつつある。

尊厳の問題に関しては、戦時生産の教訓が活きる。戦時の大量生産体制には、工員を製造ラインを動かすだけの機械の一部と見なさず、工員がそれぞれ自らのスピードとリズムで作業できる柔軟性があった。さらに、工員には仕事の意味を知る機会が与えられ、仕事の改善を目的とした提案制も実施されていた。戦後体制でも、例えば職場コミュニティに関わる仕事に働く人を参画させることで、彼らがマネジメントとは何かを知り、責任を持って主体的に行動する契機とすることができる。

【Ⅲ.いかに社会の安定と存続に寄与するか?】
◆古典派経済学においては、企業の存続など社会のあずかり知らぬことであるどころか、むしろ国民経済全体にとって害とされていた。その典型が独占である。独占においては、価格のつり上げと生産量の絞り込みによって企業の利益が最大化される一方で、社会的利益が損なわれる。

ところが、近代産業社会の大量生産産業では、独占は不経済であって利益にならない。競争関係にある大規模事業体が大量生産を通じて、最小コストによる最大生産を成し遂げるという、社会にとって最も利益のある行動こそが企業の利益を最大化する。ここにおいて、社会と企業は同一の利害を有する。

◆企業の利益は、未来への賭けに伴うリスクに対する保険である。また、利益とは資本形成の手段であり、経済の成長と安定をもたらす。さらに、利益は経済活動の唯一の評価尺度である。人間には利潤動機があり、金儲けは汚いとか、利潤動機は支配欲につながるといった批判はナンセンスである。

利益は価格からコストを除いた差分である。では、価格はいかなる機能を持つか?価格という経済合理性の尺度は、有効な社会政策を決定する基盤である。その価格は国家が決めるべきか?それとも市場によって決められるべきか?答えは、経済に関わる決定が市場において1人1人の経済上の欲求によって行われない限り、自由な社会にはならない、ということである。

◆産業社会は雇用さえ保障できれば、経済上の混乱や困難に耐えられる。自由企業体制において完全雇用は可能だろうか?

20世紀の経験は、(消費財ではなく、)資本財の生産が十分である限り、不況は起こらないことを教えてくれる。企業には、資本財に対する投資を行うことによって雇用に貢献する社会的責任がある。その責任を担保するためには、企業が投資引当金を積み増しするインセンティブを持てるような法人税制改革が必要である。公共事業による投資は、緊急の臨時措置にとどめなければならない。

◆【1983年版への追記】本書は、世界中の企業、公的機関、NPOに大きな影響を与えたが、当のGMにはいかなる影響も与えなかった。それどころか、GMの経営幹部、さらには労働組合まで本書の内容を攻撃した。

GMが気に入らなかったのは、本書が行った以下の3つの提言である。すなわち、①戦後の平時生産への復帰にあたって、長年上手く行っていた経営政策を見直すべきであること、②戦後の従業員関係の基本は、仕事と製品に誇りを持ちたいという従業員の意欲に置くべきであり、労働力はコストでなく資源としてとらえる必要があること、③企業は公益に関わりがあり、社会の問題にも関係を持たざるを得ないということ、である。

《感想》
『「経済人」の終わり』(1939年)、『産業人の未来』(1942年)、『企業とは何か』(1945年)は初期ドラッカー3部作と呼ばれ、ドラッカーの思想の原点を知る上で非常に重要な位置を占めています。

『「経済人」の終わり』では、単純な経済発展を目的とした商業社会の時代が終焉を迎えたことを指摘し、『産業人の未来』では、商業社会に代わる産業社会が正統に機能する上で、個人に”位置”と”役割”を与えなければならないと説きました。そして、『企業とは何か』は、GM(ゼネラル・モーターズ)の研究を通じて、企業がいかにして産業社会からの期待・要請に応えるべきかを明らかにした1冊です。

GMの幹部は皆、ドラッカーの調査に協力的でした。しかし、本書の内容はGMには受け入れられませんでした。特に、トップであるアルフレッド・スローンが最も嫌ったのは、「企業は社会的責任を果たすべきだ」というドラッカーの主張だったと言います。スローンはプロのマネジメントとしての責任を限定的にとらえており、社会的責任という拡張的な概念はかえって無責任だと考えたようです。

本書では、『「経済人」の終わり』で政治学者としてデビューしたドラッカーらしく、企業を3つの側面から政治学的に分析しています。

 Ⅰ.企業がいかに事業体としての機能を果たすか?
 Ⅱ.いかに社会の信条と約束の実現に貢献するか?
 Ⅲ.いかに社会の安定と存続(言い換えれば、社会の効率)に寄与するか? 

以下、それぞれについて一言ずつコメントしたいと思います。

【Ⅰ.企業がいかに事業体としての機能を果たすか?】
そもそも企業が存続しないことには、企業を政治学的に語ることもできません。ドラッカーは、企業存続のカギは「リーダーの育成」であると見抜き、それを実現するための組織として、GMの「分権制(現代風に言えば事業部制)」を支持しました。
「組織にとっては、リーダーを育てることのほうが、製品を効率よく低コストで生産することよりも重要である。効率よく低コストで生産することなど、人間と人間組織がありさえすればいかようにもできる」(p117)
一方、社会主義国ではトップに権力が集中し、部下がトップの歓心を買おうと派閥、抗争、対立に明け暮れているため、将来のリーダーが育たないと痛烈に批判しています。

ドラッカーは、分権制を産業社会の原理と結論づけています。しかしまた、不変のマネジメントはないとも述べています。僕はここに無視できない矛盾を感じました。分権制も決して不変ではないと言った方がよかったのではないでしょうか?(事実、ドラッカーは後年の大著『マネジメント』の中でこの点を認め、「疑似分権制」なるものを提唱しているようです。しかし、僕はまだ同書を読んでいないので、その内実を把握できていません)

組織は時代の流れ、環境変化、企業の戦略、経営者の信念などに応じて様々な形態を取ります。現代なら、ティール組織、ホラクラシー、アジャイル型組織、ネットワーク型組織、DAO(分散型自律組織)などを挙げることができます。リーダー育成という目的を実現する手段としての組織形態は、必ずしも1つとは限らないでしょう。

【Ⅱ.いかに社会の信条と約束の実現に貢献するか?】
ドラッカーによれば、社会には目的があり、目的を実現するための信条と約束があります。そして、企業が社会の一部である以上、企業は社会の目的に貢献し、さらに社会の信条と約束を実現することが責務となります。この部分こそ、本書が世界に先駆けて企業の社会的責任を説いた1冊と評されるゆえんです。

ドラッカーが言う社会の信条と約束とは、機会の平等と個の尊厳を指しています。端的に言えば、アメリカという国が大切にしている平等と自由のことです。例えば企業は、社員に対して教育や昇進の機会を平等に与えなければなりません。また、企業は社員に期待することと、社員1人1人が仕事を通じて実現したいこととを調和させなければなりません。

実は、後のドラッカーの著作を読むと、ドラッカーは社会的責任を比較的狭くとらえる傾向が感じられます。企業はその活動を通じて様々なステークホルダーに影響を与えますが、自社の使命や強みを離れてまでステークホルダーに介入したり、ステークホルダーを支援したりすることは無責任だと断じています。まして、企業が本業とは無関係な文化芸術活動に資金を提供するようなメセナが社会的責任であるなどとは一度も言っていません。

他方で、企業は社会の根源的・本質的な価値観を体現する必要があるという本書の主張は、非常に重みを持っています。企業は社会の正義や共通善の実現に貢献すべき政治的存在であるというわけです。

とはいえ、現代は社会そのものの目的が多義化し、それに伴って共通善の中身が曖昧になり、目的実現の手段である基本的価値観も多義化しています。自由・平等という言葉を取ってみても、一致した見解を見ることが少なくなりました。こうした状況では、企業の社会的責任をどのように語ればよいのでしょうか?

【Ⅲ.いかに社会の安定と存続(言い換えれば、社会の効率)に寄与するか?】
この部分は、企業の経済的な側面を取り上げています。企業、とりわけGMのような大企業が急速に力を持ち始めた当時は、反企業的な運動も起こりました。ドラッカーは、大企業の存在は社会にとってよいことか?と問います。確かに独占は社会の利益を損ないますが、競争関係にある大企業が大量生産を通じて、最小コストによる最大生産を成し遂げれば、企業の利益も社会の利益も最大化されるというのがドラッカーの見解です。

次に、企業の利益とは何か?と問います。利益とは未来のコスト、未来に対する保険料であると同時に、社会における資本形成の源泉です。ドラッカーは、企業が利益を資本財に投資し続ければ、完全雇用が実現され、不況を回避できると分析しました。

ただ、本書は「ヒト余り、モノ不足」の時代に書かれたものである点に注意が必要です。ヒト余り、モノ不足の場合、資本財(=設備)への投資を増やして仕事を創出し、生産量を上げることには意味があります。しかし、現在の先進国(特に日本)はヒト不足に陥っています。雇用を創出するためではなく、雇用を削減するためにITや設備に投資をしなければならなくなっているのです(僕は、中小企業庁が「省力化投資補助金」を打ち出したのは大きな転換点だったと思います)。

つまり、目的と手段の因果関係が変質してしまいました。ドラッカーは、技術や道具、さらに仕事自体を、「人や社会と絆を結ぶためのもの」と見ています。雇用削減のためにIT技術や設備という道具に投資が行われるならば、企業の社会的意味とは一体何になるのでしょうか?人が働くとはどういうことになるのでしょうか?人々が絆を結ぶことは果たして可能なのでしょうか?

 ◇ ◇ ◇

我々は今、非常に難しい時代を生きています。目的と手段を合理的に結びつけることが比較的容易だった時代は終わりました。ある目的を実現する手段は1つとは限りませんし、かつては合理的だった手段が今や非合理的になってしまうこともあります。さらに言えば、目的そのものが多義化しており、それに伴って手段も多義化しています。

現代社会は、多様な価値観を反映した多様な目的を掲げる組織が、時に協調し、時に闘争しながら共存する社会です。多様性を尊重するには、異質な存在を自分の軸や土俵の上で比較しないこと、柔和な表現を使えば、「自分とは交わらないが、そういう考え方もあるよね」と受け止める寛容さが求められます。

しかし、人間はどうしても自分と他者を比較する動物であるがゆえに、異質な存在に対してはむき出しの差別と非難を向けがちです。アメリカのトランプ大統領のように、多様性そのものを否定しようとする人も出てきます。それでもなお、我々は共存しなければならないという難題を抱えています。

多様な目的の間で闘争を繰り広げる組織(あるいは個人)の間には、脱目的的な存在が調停、仲裁、媒介役として入り込む必要があるでしょう。僕はここに、「新しい日本的経営」(もしくは「新しい日本的政治」)が成立する余地があると考えています。

僕は元々、「新しい日本的経営」というものを、明確な経営理念や強みに基づく合理的で知的な戦略ではなく、偶然、運、直感、身体知に依拠した経営として構想していました(大泉洋さんの出世作『水曜どうでしょう』から着想を得たことは、今までも繰り返してきた通りです)。それは単独で完結した経営だったのですが、過度に競争的、闘争的な社会においては、人々の野性的な感情を多少なりとも緩和する役割を担えるような気がするのです。

もっとも、どうすれば本当にそんなことができるのかは、これから僕自身が様々な人たちとの実践の中で考えていくつもりです。「新しい日本的経営」は脱目的的であり、脱価値的でもあります。真空と言ってもいいでしょう。とはいえ、1つだけおぼろげな目標があります。それは、幸せになることです。最高の幸せは、良質な人間関係から生まれます。多元社会の中で、いかにして人間関係の質を高めていくか?「新しい日本的経営」が答えるべき大きな課題の1つです。