
《要点》
【ドラッカーのおばあちゃん】おばあちゃんは間抜けだったが、誰よりも早く20世紀の問題の本質を理解していた。例えば、お金が通貨であるためには、価値の基準となることができなければならない。その基準を政府がインフレによって変えてしまったら(※第1次世界大戦後のオーストリアは激しいインフレに見舞われた)、お金とは何であるというのか?
おばあちゃんは女性の地位や社会進出を評価することなど思いも及ばなかったが、男が血眼になっているものに価値を認めなかった。それでも、男は必要な存在で、多少は大目に見てやるべきことは承知していた。その男が作る社会の決まりは、間抜けな女の年寄りでもどうにでもなる代物だということも知っていた。
ある時、おばあちゃんが市電に乗ると、若者がナチスの大きな鉤十字を襟につけていた。おばあちゃんは彼を説得して鉤十字を外させた。社会的な教義ではなく、1人1人の人間、それぞれの信条、信念、気持ちを忖度しないことは、ガス室建設の第一歩となることをおばあちゃんは教えてくれた。
【ヘムとゲーニア】ヘムは官僚として異例の出世を遂げたが、第1次世界大戦後に大蔵省でインフレ・失業率対策に失敗し、ウィーンの大銀行に天下った後もその銀行が清算されるという憂き目に遭った。ヘムの妻であるゲーニアは、女性のための初のギムナジウムを創設し、またヘムと一緒に、当時のウィーンでは珍しかったサロンを運営していた。
ヘムとゲーニアには不思議な魅力があった。2人は日常生活において「戦前」を復活させることに成功していたからである。しかし、当時のヨーロッパでは、「戦前」こそあらゆる者を麻痺させ、思想と思考の根を止めていた。「戦前」への執着こそ、ナチズムの力の源泉になっていた。ドラッカーは若い頃から、本能的に「戦前」から逃れなければならないと思い続けていた。
(※ここで言う「戦前」とは、理性主義のリベラルが主流であった19世紀の社会を指す。それが全体主義につながっていったことを、ドラッカーは『「経済人」の終わり』や『産業人の未来』で指摘している)
【エルザ先生とゾフィー先生】美術と工作を教えていたゾフィー先生は「天賦の教師」だった。ゾフィー先生は生徒の間を歩き回り、あちこちに座り込み、言葉を使わずに教えた。生徒の動きを見、その子の手に小さな自分の手を重ね、のこぎりや絵筆を正しく持つよう誘導した。
校長兼4年担任だったエルザ先生は、生徒自身に学ぶべきことをプログラムさせる「学習指導者」であった。エルザ先生は、ドラッカーが上手に作文を書くことを見抜き、得意を伸ばすように教えた。また、学習の目標と結果を定期的に書き込むワークブックをドラッカーに渡し、ドラッカーの学力を伸ばした。
【フロイト】フロイトは貧乏で、ユダヤ人差別に苦しめられ、医学界から無視されたと言われる。しかし、いずれも誤解である。
まず、フロイトの生まれは裕福であり、医師となった後も高額の診療代を徴収する金持ちであった。にもかかわらず、当時のヨーロッパ人が金銭的な抑圧に苦しんでいたのと同様、フロイトは貧困恐怖症にかかっていた。だが、精神障害の原因は性的な抑圧にあると主張するフロイトは、自らの貧困恐怖症を直視できなかった。
フロイトは、精神分析の世界に非ユダヤ人を引き入れようとした。しかし、フロイトにとって非ユダヤ人は退屈で気難しく、打ち解けず、いらいらの元であったため、やがて彼らの全てと絶縁した。とはいえ、ドイツ文化の大家でもあったフロイトとしては、それは到底認められることでもなかった。したがって、彼は、非ユダヤ人が身近にいないことの説明として、反ユダヤ主義的差別を持ち出したのである。
フロイトは、理性的な科学と非理性的な心の動きを1つの理論にまとめ上げるという壮大な試みを行っていた。理論と経験のバランスの維持が必須だった。精神分析の方法論、治療効果の定義などといった問題提起の1つにでも答えようとするならば、体系としての精神分析が崩壊しかねないことをフロイトは知っていた。そこで、ウィーンの医学界が精神分析を無視したかのような態度を取り続けたわけである。
【トラウン伯爵】16歳のドラッカーは、当時の法哲学で最大の難問とされた「刑罰の根拠」について、生意気にも決定版とも言うべき論文を書くことにした。国立図書館の次長であったトラウン伯爵のおかげで、国立図書館で自由に文献を探すことができた。その中に、社会主義インターナショナル叢書と銘打たれたカール・ラウントのパンフレットがあった。
実は、カール・ラウントとは若き日のトラウン伯爵のことであった。トラウン伯爵は、社会主義が新しい社会を作ると信じていた。ところが、反戦・平和を掲げた社会主義がナショナリズムに傾き、第1次世界大戦を煽り立てた。その時に社会主義は死んだと悟ったのである。第1次世界大戦では、戦後のヨーロッパを立て直すべき人物が数多く亡くなった。とりわけ、支配階層が1つしかないイギリスは最も傷ついた。
【カール・ポランニー】ポランニーの5人の兄妹は全員、自由でありながらブルジョア的でもリベラルでもない社会、繁栄しつつも経済に支配されない社会、共同体でありながら共産的ではない社会の実現という、同一の大義を奉じていた。
ドラッカーは、特に4番目のカール・ポランニーと親交があった。ドラッカーが『産業人の未来』を書いた時、カールは対話の相手となってくれた。しかし、「保守主義的アプローチ」にだけは全く同意しなかった。それが、カールが後に『大転換』を書くきっかけとなった。
『大転換』の狙いは、経済と社会を調和させる場は市場以外にあることを示すことであった。市場は財の交換と資本の配賦にのみ使うべきであって、土地と労働の配賦に使ってはならなかった。それらのものは相互扶助と再分配によるべきだとした。しかし、カールの人生は総じて見れば挫折したものであった。カールの挫折は、ヨーロッパがフランス革命以降200年かけて追求してきた「社会による社会の救済」が終焉を迎えたことを表していた。
【クレイマー】国際法のゼミでメンバーとなったクレイマーは、プロシア精神を信奉していた。ドイツ人は父親的な存在を必要としており、正統な君主がいなければ独裁者の犠牲になる他ない国民であると言った。そのプロシア精神は、ビスマルクのドイツ帝国によって失われた。第1次世界大戦後のワイマール共和国も同じ轍を踏んだ。ナチスを支持することは到底できなかった。クレイマーは生粋の保守主義者であった。
そのクレイマーがアメリカで見出したのがキッシンジャーである。クレイマーの政治原則は、キッシンジャーの政治原則と完全に等しい。すなわち、①内政に対する外交の優位、②外交における力の優位、③外相に大人物を求める、の3つである。
ドラッカーはいずれにも賛同できなかった。内政と外交は妥協と調整を要するものである。また、外交において経済を無視することは馬鹿げており、加えて大国同士のみのバランス・オブ・パワーを追求するのではなく、中級国を組み込まなければならなない。さらに、大人物の後には凡庸な後継者しか残らず、政治の継続性が危険にさらされる。
【ヘンシュとシェイファー】ドラッカーがナチス政権を恐れてドイツを離れる前夜、勤め先だったフランクフルトの夕刊紙『フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガー』の同僚ヘンシュが訪ねてきた。ヘンシュはナチス党員だった。ヘンシュが「力がほしい。金がほしい。一角になりたい。だからナチスに早く入党しておいたんだ」と言った時、ドラッカーはその後のドイツに起きる血生臭い事態を予想した。
ドラッカーがロンドンに着くと、ドイツ最高の新聞と評されていた『ベルリナー・ターゲスブラット』紙の編集長ポストにシェイファーが就くことを知った。シェイファーは、西側諸国のことを知らないナチスに情報提供するためにポストを引き受けたと説明した。ところが、ナチスは直ちにシェイファーを利用し、ナチス礼賛の記事を書かせた。
ハンナ・アーレントは、悪をなすのは大悪人だという幻想にとらわれているが、ほとんどの場合、悪をなすのは平凡な者である。ヘンシュのように、自らの野心のために悪を利用しようとする時、人は悪の道具とされる。シェイファーのように、より大きな悪を防ぐために悪を利用しようとする時、人は悪の道具とされる。
【ブレイルズフォード】イギリスとアメリカで名の知れた文筆家であったブレイルズフォードは、まさにイギリス伝統の反体制派であった。プロレタリアの団結よりも思いやり、富者への復讐よりも貧者への正義、政府の行動よりも個の主体性、福祉よりも尊厳、権力ではなく良心に重きを置く伝統の人だった。
ブレイルズフォードが共産主義に心を動かされたことはなかったが、ナチズムの伸張を見るにつけ、自由主義者、社会主義者、共産主義者による反ナチズムの共同戦線結成を呼びかけるようになった。在イギリスソ連大使マイスキーはブレイルズフォードを巧みに利用した。しかし、スターリンの恐怖政治がいよいよ否定できないものとなると、ブレイルズフォードは葛藤した。左翼にその葛藤を話すことはできなかった。そこで、左翼ではないドラッカーが選ばれた。
ドラッカーは『「経済人」の終わり』を書き上げたところだった。同書でドラッカーは、ドイツとソ連が手を組むと予想した。それは、当時誰も考えなかったことであった。だが、原稿を読んだブレイルズフォードは興奮し、「これで共産主義と堂々と手を切れる」と言って、同書の序文を引き受けてくれた。
【フリードバーグ商会での仕事】ドラッカーはロンドンのフリードバーグ商会というマーチャント・バンクで証券アナリストの仕事を始めた。
ある金曜日、共同経営者の1人であるフリードバーグはドラッカーを呼び出し、「君は給料に見合ったことを全くしていない。君は我が社の共同経営者の秘書役だ」と言って、来週火曜日までに秘書役として何をやるつもりか書き出すように指示した。その時初めてドラッカーは、証券アナリストではなく秘書役として、3人の共同経営者のことを真正面から考えるようになった。「彼らのために私は何をすべきだろうか?」と問うようになった。
フリードバーグ商会に出入りする人たちは興味深い人物が多かった。ヘンリーおじさんはシアーズ・ローバックに先駆けて、アメリカの流通業界の革命児となった人だ。ヘンリーおじさんは、合理的でない顧客などいないことを教えてくれた。その他にも、流通業界の原則を見抜いていた。ヘンリーおじさんは、最も具体的・個別的なことから出発して、一般化に達していた。
パールブルームは財務の天才だった。国の予算であれ会社の財務諸表であれ、ちょっとしたことから問題点を見つけ出した。2週間後には対策まで練っていた。彼は言った。「説明しなければならないようでは間違った提案です。誰もがこれだと言ってくれるような簡単なものでなければなりません」。
【フリードバーグ商会の愛人】ドラッカーをフリードバーグ商会に雇ってくれたリチャード・モーゼルの弟ロバート・モーゼルはマーチャント・バンカーとして一流であり、フリードバーグ商会の共同経営者になっていた。彼には、マリオン・ファーカーソンという年上の愛人がいた。
ロバートの親友に、ウラジミール・ブーニンがいた。彼もまた花形ディーラーであり、共同経営者になる資格を十分に持っていた。そこでフリードバーグは、ウラジミールを共同経営者にするための契約書を準備するよう、モーゼル兄弟に依頼した。その契約書を見たフリードバーグはこう言った。「ウラジミールがファーカーソン夫人を引き継ぐことについて、何も触れていないじゃないか。ファーカーソン夫人は共同経営者のポストにくっついているんだ。それが原則だ」。
結婚したばかりのウラジミールは頭を抱えた。彼は夫人のことが苦手だった。だが、その後、ファーカーソン夫人が運転する車が事故を起こし、夫人は亡くなった。ロバートは深い悲しみに暮れた。そして、ウラジミールは3週間も経たないうちに共同経営者となった。
【ヘンリー・ルース】アメリカに渡ったドラッカーは、ヘンリー・ルースと仕事をしたことがある。ルースは『タイム』、『フォーチュン』、『ライフ』を成功させた雑誌王である。しかし、ドラッカーは『タイム』のグループ・ジャーナリズムというやり方に感心していなかった。一流の編集者は全て自分で読み、編集し、書き直したものだ。
『フォーチュン』創刊10周年記念号の編集を手伝った時、ルースはとてもその下では働きたくない種類の人間だと悟った。彼は、各事業の責任者を迂回して現場に直接指示し、編集長たちを通さずに記者や特派員や編集者に会うことによって、自分以外の者が支配権を持つことを防いだ。そのため、彼の雑誌の全てにおいて、派閥、抗争、対立、不信が蔓延していた。
ルースの人間操縦術は、中国人のそれであった。実際、彼は中国への宣教師の子として生まれ、中国人の友人に囲まれて育った。ルースに政治力はなかったが、全社に押しつけていた政策が1つだけあった。親中派としての対中政策だった。ルースの中国観は、アメリカに伝統的と言うべき、中国に対する一種の不可思議な感情移入を反映したものだった。
【フラーとマクルーハン】ドラッカーはフラーとマクルーハンが有名になるずっと前から友人だった。フラーは未来学者として、様々なテクノロジーの未来を予想することができた。彼は自らを幾何学者と規定した。だが彼には、地上の秩序以上のものを見、天体の音楽を体感することができた。マクルーハンは、とある学会で「活版印刷というテクノロジーが知識(近代の学問の新展開)を規定した」と主張し、聴衆を驚かせた。
2人はテクノロジーを人間完成の道具と見ていた。テクノロジーは人間の生産物に影響を与えるだけでなく、人間そのものを規定し、あるいは少なくとも人間が自らをいかに見るかを規定するものだった。
しかし、2人のビジョンには、テクノロジーと人間特有の活動としての「仕事」を関連づけるものがなかった。道具としてのテクノロジーと、文化としてのテクノロジーが1つのものになるのが、実に「仕事」においてである。2人がついぞ注目するに至らなかったものが、この「仕事」だった。
【GMでの調査】『産業人の未来』に興味を持ったGMは、ドラッカーに自社を自由に研究させる機会を与えてくれた。ドラッカーが会ったGM幹部は、皆が魅力的であり、また調査に協力的だった。
ドレイスタットはキャデラック事業部が解体の危機にあった時、キャデラックを黒人富裕層のステータス・シンボルとしてマーケティングし、黒字化に成功した。それ以上に重要だったのは、彼が人を大切にすることであった。仕事ができなくとも、真面目で、工具と仲間を大事にする人はクビにしなかった。人事部が新人教育しか行わないことにも疑問を呈し、継続学習やローテーションの必要性を説いた。第2次世界大戦中には、字も読めない黒人の売春婦を雇い、爆撃機用照準器の製造で実績を上げたこともある。
ウィルソンは、ドラッカーの調査の中身に関心を示した唯一のGM幹部であった。ドラッカーは、働く者への収入保証と、自治的な職場コミュニティの導入を提案した。前者に関しては、後に補完的失業給付として実現した。後者については、ウィルソンが従業員に向けて、「私の仕事―気に入っている理由」という論文コンテストを行った(あまりに応募が多かったことに組合が驚き、コンテストは中止となったが)。
GMのトップ、アルフレッド・スローンも、あらゆる会議にドラッカーを参加させるなど協力的であった。ところが、ドラッカーが調査結果をまとめた『企業とは何か』の内容だけは意図的に無視した。スローンは、プロのマネジメントとしての権限・責任に関心があった。一方、ドラッカーが説いた職場コミュニティや組合関係の話は社会的責任の問題であり、スローンにとっては、社会的責任なるものはプロならざるよりも悪いことであった。
【お人好し時代のアメリカ】1930年代末の不況期のアメリカには、人の好さと行動力があり、見知らぬ人にでも賭けてみようとする姿勢があった。アメリカ人にとって、アメリカとは国ではなく政体であった。あらゆるものを超越した「最後にして最良の希望の地」であった。アメリカが存在する場所とは、それなくしてはアメリカ合衆国はあり得ないという1つの普遍的な理念が存在する空間なのだった。
そんなアメリカも、外交面では問題を抱えていた。アメリカの信条におけるアメリカは国際主義ではなく、孤立主義でなければならなかった。ローズヴェルトも最初は孤立主義を貫いた。しかし、不況時代から戦前時代へと急速に移行するにしたがって、ローズヴェルトは介入主義へと転換した。
そのローズヴェルトに裏切られたと感じたのが、労働組合のリーダー、全米合同炭鉱労働組合(UMW)の会長、産業別労働組合会議(CIO)の創立者ジョン・L・ルイスだった。戦時生産体制のために労働者が低賃金を強いられる事態に憤慨したルイスは、政府介入による勝利を期待して、鉄鋼4社に対するスト突入を決めた。ところが、ローズヴェルトは中立を守った。ルイスは、「アメリカの大統領は、外国で冒険をしたくなると、労働者を捨ててまでも経営者に取り入ろうとする」と批判した。
国際主義者と孤立主義者の対立は、アメリカの夢を引き裂いていた。だが、日本が真珠湾を攻撃すると、アメリカのお人好しの時代は終わった。アメリカはその約束と信条を捨て、大国となる道を選んだのである。
《感想》
『傍観者の時代』は、1969年、ドラッカーが69歳の時に発表した事実上の”自伝”です。ドラッカー通の中では、「一番面白い本」と評されている1冊だと言います。ただ、本書は一般的な自伝とは2つの点で異なっています。
1つ目は、ドラッカーがマネジメントの権威としての地位を確立した40代以降の話は一切出てこず、時代が第1次世界大戦から第2次世界大戦の間に限定されているという点です。ドラッカーは自らを経営学者ではなく、あくまでも「社会生態学者」と称していました。若い時期に2つの大戦を経験し、激動の時代を生きる中で、社会の本質を見抜く素地が養われたことを強調する狙いがあったのかもしれません。
2つ目は、自伝であるにもかかわらず、主人公がドラッカーではないという点です。主人公はドラッカーと出会った人々の方です。精神分析のフロイト、『大転換』で知られるカール・ポランニー、キッシンジャーを見出したフリッツ・クレイマー、アメリカの雑誌王ヘンリー・ルース、未来学者バックミンスター・フラーなど、著名人も数多く含まれます。ドラッカーはこれらの人々の言動や思想を丁寧に描写し、時折批評を加えるというスタイルを取っています。この点で、確かにドラッカーは「傍観者」なのです。
先日、本書を題材に、中小企業診断士の仲間と勉強会を開催しました。なぜドラッカーはこれほどまでに著名人と交流することができ、著名人から求められたのか?という話題になったのですが、ドラッカーは極めて聞き上手だったのだろうというのが勉強会メンバーの出した結論でした。
「彼(マーシャル・マクルーハン)は、いつも自分の考えていることだけに夢中になってはいたものの、 楽しい客だった。しかし、20年以上に及ぶ付き合いの中で、 一度たりとも、私が何をしているのかを尋ねたこともなければ、 私の説明を聞いたこともなかったと思う」(p295)
文明批評家であるマクルーハンとの交流を描いた記述です。ドラッカーは、自分の著書の中では独特の癖のある文章で自らの主張を堂々と展開しますが、対人関係においてはマクルーハンに対するのと同様に、聞くことを大切にしていたのでしょう。そう言えば、ドラッカーは『経営者の条件』の中で、マネジメントの地位にある者に対し、部下とともに成果を上げたければ「聞け、話すな」と忠告していたことが思い出されます。
本書には実に様々なエピソードが登場します。その中で僕が個人的に気に入っているのは、この部分です。
「大学院の院生にとって最高の教師である者もいるし、学部の学生、しかも新入生にとって最高の教師である者もいる。( 中略)ボーアは大学院以上の者にとって最高の教師だったが、 学部の学生にとっては近寄りにくいだけでなく、 理解もしにくい教師だった。(中略)これに対しエンリコ・ フェルミは、学部の学生、特に新入生、 さらには物理学について何も知らない者にとって最高の教師だった 」(p73-74)
ドラッカーは、「自分は誰にとって最高の教師となり得るか?」と問いました。僕は細々と経営コンサルタントをしていますが、コンサルタントもクライアントにとって教師とまではいかなくとも、コーチの役割を果たします。自分は誰にとって最高のコーチとなるかを明確にしておくことは、仕事の成果を最大化する上で非常に有益です。
僕の場合、学生時代に塾講師をしており、高校3年生の集団授業と個別指導の両方を担当していました。個別指導の生徒の中に、極度の勉強嫌いが何人かいて、他の先生も手を焼いていたところを、僕は彼らの学習を粘り強く見守ることで、何とか大学合格に導くことができました。この経験は僕の中で大きな財産となりました。
就職して経営コンサルタントになった後、しばらくは大企業がお客様でした。しかし、大企業は経営ノウハウが豊富ですし、優秀な経営コンサルタントも大勢ついています。僕などがいなくても、大企業は問題なく機能すると思うようになりました。そこで、どちらかと言うと経営ノウハウに制約がある中小企業向けのコンサルティングにフィールドを移すことにしました。
中小企業向けのコンサルティングにも、経営者をたくさん集めてセミナーや研修を提供するパターンと、1社1社にじっくりと向き合うパターンがあります。僕は学生時代の体験があるせいか、どうもセミナーや研修が苦手で、経営者個人ないしは経営者を含む少人数のチームと一緒に仕事をした方が楽しく、成果も上がりやすいことに気づきました。
繰り返しが効くセミナーや研修とは異なり、個別コンサルティングは企業ごとに毎回手間がかかり、はっきり言って儲かりません(苦笑)。それでも、このやり方が僕の性分に最も合っているのです。
さて、もう少し本書の内容に踏み込んでみましょう。
「私は、政治、哲学、歴史、マネジメント、技術、経済のいずれについてであれ、 多様性と多元性の大切さを説いてきた。 政府や大企業による集権と一律が求められているときに、分権、 実験、コミュニティを説いた。 政府や大企業が求められている分野において、 多様性と独自性の守り手、価値の担い手、 市民性の守護者としてのNPO(非営利組織)の役割を論じた。 私は流れに逆らってきた」(新版への序文より)
ドラッカーは早くから多元社会の到来を見通していました。集権的な政府や大企業だけが社会の主要な地位を占めるのではなく、多様な目的と多様な価値観を持った中堅・中小企業や非営利組織も集まって重層的な社会が構成されるというわけです。
ただ、1つ1つの企業や組織には一貫性を要求していたと感じます。個々の組織は明確な使命を設定し、それを実現するための信条を掲げなければならないとしました。この議論を深化させたのが『ビジョナリー・カンパニー』シリーズで知られるジム・コリンズです(コリンズは最初、自らの著書のタイトルを『ドラッカーは正しかった』にしたかったそうです)。
さらにドラッカーは、組織を構成する個人にも一貫性を求めました。個人はインテグリティ(真摯さ)を持ち、「自分を使って何を成し遂げたいか?」をはっきりさせなければならないと主張しました。そして、組織の方向性と個人の方向性を調和させる必要性を説いたのです。
組織や個人が一貫性を持つということは、1つのフィールドに全てを賭けることを意味します。ドラッカーが『経営者の条件』の中で、成果を上げるエグゼクティブの習慣として「集中する」を挙げた通りです。しかし、いわゆるVUCAと呼ばれる不確実性が非常に高い現代において、自らの資源を一点集中させることはハイリスクであるように思えます。競争に勝てばハイリターンが得られるものの、競争に敗れた時の損失は目も当てられません。
本当の意味で多様性、多元社会を実現するならば、組織も個人も自らを多元化することが重要なのではないでしょうか?言い換えれば、目的を敢えて曖昧にし、相矛盾するような価値観を自らの中にいくつも内包するような生き方をするのです。僕が「新しい日本的経営」と呼ぶのがそれです。とりわけ、経営資源が限定されている中小企業、秀でた強みに乏しい個人こそ、こうした生存戦略が適していると考えます。圧倒的な勝利は得られませんが、負けずにしぶとく生き残ることができるはずです。
同じことは国家レベルでも言えます。しばしば日本の外交にはビジョンがなく、曖昧、中庸、気まぐれと批判されます。しかし、大国の地位を降りて小国になりつつある日本には、野心がないからこそアメリカ・EUと中国・ロシアの双方を惹きつけることができるのだと思います。敢えて一貫性を持たせない外交を、「新しい日本的政治」と名づけてもよいかもしれません。
『産業人の未来』の記事でも書きましたが、多元社会は過当な競争社会でもあります。勝者は一部に限られ、多数の敗者が生まれます。「新しい日本的経営」によって一定程度負けを緩和できたとしても、負けを誰がいかに救済するのか?という課題は残ります。
「彼ら(※ポランニーの5兄妹)が重要な意味をもつのは、彼ら自身や彼らの生涯のゆえではない。それは、 彼らの大義とその挫折のゆえだった。 彼らのそれぞれが大きなことを成し遂げた。だがそれらのものは、 それぞれが目指したものではなかった。彼らの全員が『 社会による社会の救済』を信じていた。しかし、 やがて諦めさせられ、落胆させられていった」(p154)
かつて、負けは政府が救済するべきだという考えの下に福祉国家が誕生しました。一方、ドラッカーは福祉国家に対して極めて批判的です。政府が行っていることを再民間化するべきだと主張し、とりわけ非営利組織に救済を期待しました。
ところが、最近の世界では、現状に不満を持つ人々はその解消を大きな政府と強い指導者に期待するようになっています。社会主義でもポピュリズムでも変わりはありません。そして、日本も例外ではありません。コロナ禍で各国政府の財政規律が緩んだことも、政府を肥大化させる要因となりました。
専制的な政府に救済を委ねると、社会は全体主義化します。そうならないためには、救済の経路を多元化する必要があります。こんなケースを考えてみましょう。健常者は駅から外に出る時、駅の各所に設けられた階段やエスカレーターなどを使うことができます。これに対して、車椅子に乗っている障害者は、たいていは駅のはずれにあるエレベーターしか使うことができません。
つまり、健常者は自由な移動を多様な社会資源に依存することができる反面、障害者は依存できる資源が限られているがゆえに自由が得られないのです。一見、自由と依存は相反するようですが、実は自由と依存は表裏一体です。我々が自由に生きるには、依存の経路を増やすことが極めて重要となるのです。誰にとっても身近に頼れる存在がたくさんある状態を作ること、これが多元社会を機能させる条件です。
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