
《要点》
【Ⅰ.韓国という国の日常】
韓国は「パルリパルリ(早く早く!)」の国である。よく言えば「思い立ったらすぐに始める推進力」があり、悪く言えば「せっかちで大雑把になりがち」という特徴がある。韓国では、社会的な認識の広がりを待たずに、社会システムの早急な改善が先行するケースがよく見られる。そのスピード感は諸刃の剣で、急激な社会的変化は様々な欠陥を伴うことも多い。
2000年代から多文化政策を進めてきた韓国は、日本の技能実習制度にあたる産業研修生制度を早い段階から雇用許可制へと移行させ(2003年)、また在韓外国人処遇基本法(2007年)、多文化家族支援法(2008年)を通じて、外国人定住者についての法体制を整備した。ところが、多文化家族支援法は韓国籍者と外国人配偶者による家族を支援対象としており、外国籍同士で結婚したケースや独身の外国人は含まれない、などの問題点がある。
世界各地に散らばる朝鮮半島ルーツの者(在外同胞)に関しては、1990年代から韓国政府が国際化の名の下に取り込み、中国華僑のような経済的ネットワークを構築しようとしてきた。在米同胞や在中同胞は米国籍、中国籍を有しているため外国人として扱われ、法的な支援を受けられる。これに対して、在日コリアンには韓国籍を有する者も多く、外国人として扱われずに、韓国人よりもむしろ不利な立場に追いやられることもある。
多文化政策のみならず、男女格差の改善についても、急速な取り組みが新たな社会的葛藤を生み出している。フェミニズムに対して女性嫌悪が生まれ、さらに女性嫌悪に対して男性嫌悪が生まれるといった具合に、韓国は社会的なバックラッシュ(揺り戻し)に直面している。
【Ⅱ.韓国における歴史認識問題】
韓国の人々にとって日本という国は被爆国である以前に、朝鮮半島を植民地支配し、あらゆる資源を収奪した帝国主義という過去を持つ国である。私達はヒロシマ・ナガサキのことを語る時、その戦争がどのようにして起き、原爆被害の他にどれほどの犠牲をもたらしたのかについて、どれだけ思いをめぐらしているだろうか?
韓国語の表現として、日本語の感覚からは違和感を覚えるかもしれない言葉に「過去時清算(チョンサン)」がある。それは、大韓民国の歩みをめぐる「負の歴史」をいかに記憶すべきか徹底検証することであり、国交正常化を含む日韓関係や「親日派」(日帝時代に日本政府側に立った韓国人で、戦後も韓国の軍事政権の中で力を持った人たち)の問題もまた対象としてとらえられている。
韓国にも「ニューライト」と呼ばれる、従来の保守派・右派とは異なった立場から進歩派・左派を批判し、あたかも韓国の近代化は植民地支配のおかげだとする見方がある。そして、その流れを汲んだ国定教科書の策定が行われたこともあった。しかし、国定教科書の導入は文在寅大統領によって廃止された。「歴史の清算」をめぐって葛藤する韓国社会をどのように見るべきか?「負の歴史」を抱えた国家がいかに過去と向き合ってきたのか?日本社会は韓国の姿から気づくこと、考えることがあるのではないか?
1965年の日韓基本条約は、世界的な米ソ冷戦構造の中、反共自由主義陣営の結束と韓国の経済発展を優先するため、植民地支配の解釈を棚上げした形で締結された。その結果、「慰安婦」問題も棚上げされた。その後、両国外交の火種となってきたこの問題は、2015年の日韓合意で外交的には解決したとされてきた。
とはいえ、国連人権委員会が「クマラスワミ報告」や「マクドゥーガル報告書」において、「慰安婦」を「性奴隷」と表現しているように、国際社会はこの問題を戦時下における性暴力の問題ととらえている。「慰安婦」の被害者たちにどう向き合うのかということは、単に外交的な懸案を片づけるといった次元のものではなく、日本社会が植民地支配という過去はもちろん、現代社会における戦時性暴力や女性差別の問題にどう向き合うのかが問われていることを意味する。
【Ⅲ.苦悩する韓国社会】
1987年の六月民主抗争によって大統領直選制を実現した韓国国民は、「民主主義を自ら勝ち取った」と考えており、国家とは「私たちの国」という意識が強い。
韓国政府が住民登録番号制度によって国民の情報を徹底的に管理したり、国家情報院が「情報は国力だ」というスローガンの下に超法規的な陰の工作活動を展開したりと権力を強化する一方で、韓国国民は権力を監視するメディアに多様性と政治的主張の展開を期待している。また、セウォル号事件(2014年)や梨泰院惨事(2022年)が起きると、ずさんな管理体制を取っていた国家に対し、韓国国民は直接的に怒りの声を表明する。
だが、韓国には日本の治安維持法を模した国家保安法が現在も残っており、合法的に思想、とりわけ共産主義を制限することができる。日本における民主主義の限界に天皇制があるように、韓国の多様な価値観の発展には反共という限界がある。
韓国では経済民主化が2012年の大統領選挙で大きな争点となったが、未だ実現されておらず、経済格差は大きい。特に、財閥が経済の大きなウェイトを占めており、財閥は羨望の的であると同時に、不公平感を覚えさせる存在である。その象徴的な出来事が、2014年のナッツリターン事件であった。
経済格差を助長しているのが教育格差である。学歴競争の弊害をなくすために「高校標準化制度」が実施されたものの、富裕層はよい学習塾が集まる地域に集中し、結果的に居住地格差が生まれている。一発勝負の「修能(スヌン)」という試験を勝ち上がって一流大学に入っても、就職のために自らの”スペック”を高めなければならず、さらに就職後も熾烈な社内競争にさらされるのが韓国である。そうした社会は、いわゆる負け組から「ヘル(hell)朝鮮」と揶揄され、恋愛、セックス、結婚、出産などあらゆるものを諦める「N放世代」が、今度はそれらを敢えて拒否するという「4B(非)運動」を展開するに至っている。
最近では、韓国企業への就職だけが全てではなく、日本企業へ就職することもオルタナティブとしてとらえられるようになった。日本は地理的・文化的に韓国と近く、日本語は韓国人にとって学習しやすい言語でもある。ただし、文化的に近いと言っても無視できない違いは存在する。異なる文化的背景を持つ人が同じ職場で多くの時間をともにするには、十分な相互理解のプロセスが必要である(これは、日韓の隣国関係にも言える)。
【Ⅳ.韓国という国のかたち】
2016~17年にかけて、朴槿恵大統領を批判するキャンドル・デモが展開された。デモは韓国ならではの文化である。民主主義社会において、主人公である市民1人1人が声を上げることがいかに当たり前のことと考えられているか。デモが民主主義の大切な表現手段としていかに大切なものと考えられているか。デモのために街に繰り出すこと、声を張り上げることが何ら特別なことでなく自然な行動であるか。政治的な立場表明の発言も、そして不条理に対しデモを通して怒りを示すことも、連帯を示すことも楽しむことも全て、韓国社会の日常の一部であり根っこである。
多くの権限が集中し「帝王的」とも言われる韓国の大統領制の下では、強力なリーダーシップを兼ね備えた英雄のような大統領が待望されがちだ。しかし、多くの大統領は政治的スキャンダルなどによって失脚する。そのたびに国民は、大統領に英雄的な役割を期待するだけではいけないことに気づく。
キャンドル・デモに示された民意を背負って誕生した文在寅大統領に委ねられた役割は重大だった。キャンドル・デモが追求したのは単なる政権交代ではなく、韓国という国、社会を歪んだものにしてきた積弊の清算であった。同時に、デモ後の大統領選挙を通じて鮮明になった様々な対立を国民統合の方向へと導く「協治(ヒョプチ)」の必要性が説かれ、文在寅は「国民全ての大統領」であることが求められた。
しかし、既得権益の解体を目指すとも言える「積弊の清算」と、既得権益の人々までを巻き込んだ「協治」を両立させるという矛盾を克服することは困難な課題であった。
《感想》
著者の緒方義広氏は、2022年まで約19年間韓国で暮らし、在韓日本大使館や弘益大、延世大、梨花女子大などに勤務した後、現在は福岡大学で日韓関係、現代韓国社会、在日朝鮮人をめぐる問題などを教えている方です。本書は韓国の市民社会の実像をつぶさに描写すると同時に、『韓国という鏡』というタイトルが示すように、韓国を鏡として、日本は何を学べるか?と問いかける1冊となっています。
以下、僕なりに考えたことを2点述べたいと思います。
【1.歴史認識に関して】
以前、朴裕河(2022)『歴史と向き合う 日韓問題―対立から対話へ』(毎日新聞出版)を紹介した時にも書きましたが、日本では毎年8月15日の終戦記念日が近づくと、沖縄戦や原爆の話ばかりが報道されることに、僕自身は疑問を感じています。最近では、3月10日の東京大空襲の報道が目立ちます。確かに、東京大空襲や沖縄戦、そして原爆によって日本は大きな被害を受けました。僕もそのことには強く心を痛めています。しかし、まるで日本全体があの戦争の被害者であるかのような印象を与える報道には共感しにくいことがあります。
日本が朝鮮半島を植民地支配した歴史を直視する報道はほとんどあ
「広島平和記念資料館を訪れた韓国の人々の間からは、展示に違和感を覚えたという話がよく聞かれるという。 展示を見て不快感を顕わにしたり、 怒り出す人もいたりすると聞く。『 日本は世界で唯一の被爆国である』 という被害者性の強調に強い違和感を覚えるというのだ。(中略)
韓国の人々にとって日本という国は被爆国である以前に、朝鮮半島を植民地支配し、 あらゆる資源を収奪した帝国主義の過去を持つ国である。(中略) 日本による植民地支配という加害性がないがしろにされることは、 韓国の人々にとっていかなる理由によっても受け入れがたいことな のだ」(p109)
著者のこの文章は重く響きます。なぜ日本は原爆を落とされなければならなかったのか?なぜ日本はあの戦争を戦ったのか?その過程で東南アジアにどんな被害をもたらしたのか?我々はもっと想像力を働かせる余地があります。
日本は核兵器禁止条約締結国会議に参加していません。アメリカの核の傘に入っていることが理由です。被爆者はそのことを嘆き、政府を強く批判します。しかし、核の登場を許した原因の一端を日本の歴史が担っている可能性に思いをめぐらせることも求められるのではないでしょうか?単に核兵器の非人道性を訴えるだけでなく、歴史を直視する姿勢が伴ってこそ、日本は初めて核廃絶に対する責任を果たすことができるはずです。
本書では「慰安婦」問題について多くのページが割かれています。「慰安婦」問題も、人によって見解が大きく分かれます。
国連人権委員会が「クマラスワミ報告」や「マクドゥーガル報告書」において、「慰安婦」を「性奴隷」と表現しているように、国際社会はこの問題を戦時下における国家主導の性暴力の問題ととらえている一方で、日本国内では公娼制度の一環だったとか、募集をしていたのは民間業者であり政府は関わっていないとか、性奴隷ではなく性契約だから問題ないといった具合に、様々な反論があります。
しかし、いずれの見解に立つとしても、女性を性玩具と見なしてきたかのような日本の人権感覚は問われるべきではないでしょうか?犯罪だからダメとか、犯罪でないからOKという話ではないのです。仮に犯罪でないとしても、道義的責任を負わなければならないことはあります。現在の日本が、有名人の性暴力も不倫(不倫は犯罪ではない)も一緒くたにして袋叩きにするぐらい、女性の人権に対する意識を変化させているのであれば、「慰安婦」という過去の自らの問題に関しても、法律の境界線を不問にして向き合わなければならないのではないかと考えます。
【2.民主主義に関して】
「長期にわたるデモ(※2016~17年に展開された、当時の朴槿恵大統領に対するデモ)を支えたのは、社会的な不条理に対する怒りであり『積弊の清算』を求める切実な思いだった。
植民地支配に加担した保守勢力が既得権層として残っていることや、財閥による富の独占、ますます拡大する経済格差などはもちろん、韓国社会を澱ませる、個人の力ではどうすることもできない数々の弊害や不条理、そして、セウォル号の惨事に象徴されるような、国家が国家としての役割を果たさず国民に犠牲を強いる社会、さらに、懸命に生きても報われることのない不公平かつ不公正な社会、そうしたものへの鬱積した怒りだった」(p262)
韓国社会には熾烈な学歴競争、いや学歴だけでなく、就職後も一生続く競争があります。ドロップアウトした人は経済格差に苦しみ、映画『パラサイト』で描かれたように半地下の生活を強いられます。そんな韓国社会を若者は「ヘル(hell)朝鮮」と自虐を込めて呼び、恋愛、セックス、結婚、出産などあらゆるものを諦める「N放世代」が、さらに進んでそれらを敢えて拒否する「4B(非)運動」を展開しているなど、韓国社会の深刻な歪みが本書では取り上げられていました。
国民の間に不平不満が鬱積すると強いリーダーの出現が期待されることは、世界のこれまでの歴史がよく示しています。リーダーは、複雑な社会問題を簡単な処方箋で解決できると訴えます。しかしそれは、ややもすれば安易な”人気取り”となり、政治はポピュリズム化します。アメリカでトランプ大統領が再登板したことや、先のドイツの総選挙で極右政党であるAfD(ドイツのための選択肢)が第2位の議席数を獲得したこともポピュリズムの一例でしょう。
韓国の大統領は、時に「帝王的」と呼ばれるほど、権力が集中しています。そして、これもまた歴史が教えることなのですが、強大な権力はいつしか自己保身に走り、必ず腐敗します。韓国の歴代大統領の多くは政治的スキャンダルを引き起こしています。社会の問題は解決するどころか悪化します。すると国民がデモを起こし、さらに強力なリーダーを期待する。だが、そのリーダーもまた腐敗して国民を裏切る。そしてますます社会問題は深刻化する。韓国はこの悪循環に陥っているように思えます。
日本社会も様々な未解決問題を抱えており、現状を打破してくれるリーダーを期待するポピュリズムが現れつつあることは確かです。少し前は橋下徹氏がそうでしたし、最近で言えば石丸伸二氏がポピュリストにあたるかもしれません。
それでも、日本では韓国のように大規模なデモは起きていません。日本人の我慢強い性格が影響しているのでしょう。苦しみや悲しみは自分が受け止め、飲み込めばよいというわけです。しかし逆に言えば、その苦しみや悲しみがどこから生じているのか、その原因を深く掘り下げることが苦手であることを意味します(これは、【1.歴史認識について】で述べたこととも関連します。日本人は被爆など自らの痛みには敏感ですが、それがいかなる背景によってもたらされたのかをたどることができていません)。
単純化を恐れずに言うと、韓国は社会の諸問題の原因を国家に押しつけすぎであり、日本は社会問題を個人レベルで受け止めすぎなのです。両国に共通して言えるのは、国家と個人の中間レベルの政治を充実させることが求められている、ということです。
国家と個人の間に、地域社会、コミュニティ、NPOやその他の非営利組織、地方自治体、広域自治体圏など、重層的な政治空間を確保することが重要です。我々が意見を表明する言論の空間を多元化し、また我々が相互に依存できる経路を多元化すること、それが自由・平等の質的拡充と民主主義の成熟につながると感じます。
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