
《要点》
【第Ⅰ部:サードプレイスとは何か?】
◆中流階級のアメリカ人は、フランスやドイツの同等の人々と比べて、日常的にオープンカフェや宴会場に足を運ぶことがない。アメリカ人の生活はむしろ自宅と職場に限定されている。他国の人々にとって豊かな生活には不可欠な、家庭でも仕事でもないあの充足と社会的つながりの第三領域を、アメリカ人は持っていない。
本書ではこの第三領域のことを「サードプレイス」と呼ぶ。サードプレイスとは、「インフォーマルな公共生活の中核的環境」のことである。家庭と仕事の領域を超えた個々人の、定期的で自発的でインフォーマルな、お楽しみの集いのための場を提供する、様々な公共の場所の総称である。
◆サードプレイスは中立の領域に存在し、訪れる客たちの差別をなくして社会的平等の状態にする役目を果たす。こうした場所の中では、会話が主な活動であるとともに、人柄や個性を披露し理解するための重要な手段となる。サードプレイスは、あって当たり前のものと思われていて、その大半は目立たない。
サードプレイスの個性は、とりわけ常連客によって決まり、遊び心に満ちた雰囲気を特徴とする。他の領域で人々が大真面目に関わっているのとは対照的だ。家とは根本的に違うたぐいの環境とはいえ、サードプレイスは精神的な心地よさと支えを与える点が、よい家庭に酷似している。
◆サードプレイスから個人が受けられる恩恵は4つある。①メンバーが固定され、規則性とルーティンが支配する家庭や職場とは異なり、多様で流動的なメンバーが「目新しさ」をもたらしてくれる。②メンバーとの交流は、他人がいるからこそ、人づきあいがあるからこそ人生は楽しくもあり嬉しくもあるという「健全な人生観」を与えてくれる。サードプレイスの中では、無礼なユーモアでさえ、友愛の絆の強さを表す。
③サードプレイスは、そこに集う人々を元気にする「心の強壮剤」としての機能を果たす。参加者は相互理解を深めるものの、関わり方が限られているからこそ、あるいはあまり多くを共有しないからこそ、高揚感を保つことができる。④サードプレイスは「ひとまとまりの友人たち」を提供する。1対1の交友では互いの予定を調整しなければ相手に会えないが、サードプレイスでは互いに相手を待つ必要も、約束をする必要もない。
◆サードプレイスが社会にもたらす代表的な効果としては以下のものが挙げられる。①テレビや新聞といった一方的なメディアが市民を受動的にし、家に閉じこもりがちにするのに対し、サードプレイスは民主主義にとって極めて重要な、政治プロセスへの直接的な草の根参加を可能にする。②自由な集会の権利という人間の最も基本的な特権を行使するにあたって、人々が公式な組織を形成する前に、コミュニティを通じて会合の習慣を確立する。
③サードプレイスは人々の良識を促進する。サードプレイスでは正義が勝ち、わずかに存在する階層は全て人間の良識に基づいている。④サードプレイスでしばしば起きるお祭り騒ぎは、確かに日常の制約からの解放を可能にするが、同時にそれらの順守を全般的に強化する。⑤総じて、サードプレイスでは、相当数の一般市民が公共領域における監視機能を果たし、”派出所”の役割を担っている。
【第Ⅱ部:サードプレイスの事例】
<ドイツ系アメリカ人のラガービールガーデン>
アメリカのヤンキー酒場の酒は強く、喧嘩が絶えなかったのに対し、ドイツ移民が持ち込んだラガービールガーデンは、ビールのアルコール度数が抑えられていたおかげで秩序が保たれていた。男性中心だったアイリッシュ・バーとも違い、女性も、子どもも、外国人も受け入れた。「ゲミュートリッヒ」=温かくて気さくな、居心地がよくて魅力的な雰囲気が漂っていた。
しかし、アメリカの教会は、ドイツ系アメリカ人のラガービールガーデンを敵視した。というのも、日曜日ににぎやかな交友を提供するラガービールガーデンは、教会から礼拝出席者と教会員を奪う存在であったからだ。アメリカの教会が人々を惹きつけるには、日曜日は退屈なものでなければならなかった。
<メインストリート>
ミネソタ州南部の肥沃な農業地域を蛇行する川沿いにある、人口720人のリヴァー・パークは、第2次世界大戦末期のアメリカの典型的なスモールタウンであり、メインストリート全体がサードプレイスであった。店の正面入口階段や、事業所の多くが提供したベンチには、行き交う人々が腰を下ろし、会話を弾ませていた。また店も、浮浪者や長居の客に対して寛容であった。というのも、彼らを怒らせたら、その客はもとより、彼らの友人をも失いかねないからだ。しかし彼らは、店側に必要が生じたら、遊び半分で手伝いもしてくれた。
現在は、ショッピングモールがメインストリートに代わるサードプレイスだと言われることがある。ところが、サードプレイスの常連が「個性派の勢ぞろい」であるのに対し、ショッピングモールは顔のない人間たちが浮遊する混合体であり、そこに「個性的な人物」は1人もいない。
<イギリスのパブ>
イギリスでは、パブ(パブリック・ハウスの略)が1平方マイルに平均4軒も存在し、ほとんどのイギリス人のすぐそばにパブがある。身近な存在ゆえに、パブは「ローカル」とも呼ばれる。元々階級社会であるイギリスのパブでは、階級の異なる人々への対応策として、パブリック・バー(一般席)、サルーン・バー(特別室)、サルーン・ラウンジ(高級な特別室)、プライベート・バー(個室)と部屋が分けられていた。しかし、現在はその区別はたいそう緩やかになっている。
イギリスのパブにとっての脅威は、裁判官とビール醸造会社である。既存のパブを必要以上に規制し(例えば、パブは1日16時間閉店させなければならないという戦前からの法律がある)、新たなパブの認可を渋る姿勢は、イギリスのパブの減少要因となっている。たくさんの小さなパブという旧来の伝統が、より少なくてより大きなパブという考え方に代わってきている。当局としてはその方が監視が楽であるし、ビール醸造会社にとっては、より効率がよい(つまり、利益が上がる)営業形態であるからだ。
<フランスのカフェ>
フランスにはおよそ50人につき1軒のカフェがあると推定される。国民1人あたりの軒数で言えば、イギリスのパブとクラブの合計の10倍に相当する。フランスのカフェにはテラスがあるのが大きな特徴であり、テラス席の人気ぶりは、カフェの目の前の世界から切り離されたくない気持ちを表している。フランスの都市環境はヒューマンスケールを考慮して設計されている。車でさえ、テラスと歩道を守るために、コンパクトなものが好まれる。
フランス人は、生活水準=お金で得られるものよりも、生活様式=財政評価が難しくむしろ無益である消費の領域(気候、近隣住民、都市施設、娯楽の好み、1日の労働時間の長さなど)を優先する(アメリカ人は逆である)。これは、伝統を重視するのと同じほど、社会制度のバランスが取れていたためである。
<アメリカの居酒屋(タヴァーン)>
アメリカではサードプレイスとしての居酒屋が衰退している。アメリカは、懐の深い民主的な環境で皆と酒を飲むという、社会を結束させるしきたりを失いつつある。アメリカの居酒屋でよく見られるのは、1人でお酒を飲む孤独な客か、友人同士でのみ飲む客である。アメリカ人の社交好きは、往々にして内輪で完結している。赤の他人を相手に、形ばかりの自己紹介や握手をすることを好まない。
専門家は顧客のニーズに合わせた広告を勧める。すなわち、客は孤独であり、楽しい時を求めていて、誰かとの出会いを当てにしていて、何か楽しくてワクワクすることを期待しているという。居酒屋は、現代アメリカの社会構造が引き起こした疎外を意識し、それに乗じて短期的には利益を上げる。しかし、「独身者向け」バーにおける女性客の開拓などは、最終的には損失を被る結果となっている。
<古典的なコーヒーハウス>
ロンドンのコーヒーハウスは、共通の行動規範によって統制され、どの店にも一連の規則と命令が張り出されていた。30行に及ぶ内容のうち、冒頭6行は訪問客の平等化を強く打ち出していた。コーヒーハウスは政治の舞台であり、個人の自由の確立に大きな役割を果たしただけでなく(国王にとってはそれが不愉快で、チャールズ2世はコーヒーハウスを規制しようとしたが失敗した)、商売と文化生活の中心であった。ただし、コーヒーハウスは暗黙のうちに女性の立ち入りを禁止しており、男女間の関係に緊張をもたらした。
ウィーンは世界初のコーヒーハウスの所在地であるという伝説がある(事実は異なることが明らかになっているが)。ウィーンのコーヒーハウスは、キリスト教世界のあらゆるコーヒーハウスの中で最も変化が少なく、最も長く時の試練に耐え、最も多く真似されている。何度か訪問すれば、名前を覚えられ、読み物やコーヒーの飲み方の好みも覚えてもらえる。日刊紙の誕生によって、ウィーンのコーヒーハウスは読書室と化し、多くの人はその雰囲気とテーブルの配置の両方を、書斎(ライブラリー)という上手い言葉で表現した。
【第Ⅲ部:サードプレイスをめぐる現代の諸問題】
◆コーヒーカップの受け皿の真ん中に硬貨を1枚置いてみると、アメリカの近隣住区がたどる運命の「模式図」になる。硬貨は住宅を指す。住宅では企業のマーケティング努力によって、あらゆる娯楽を満たせる家電や設備が購入され、アメリカ人はますます外出しなくなる。コーヒーカップの縁の外側は自動車で行く郊外である。郊外は効率を重視する都市計画によって単機能に細分化されており、たまに利用するにも高額な費用がかかる。硬貨と皿の縁に挟まれた空間、すなわち家から歩いていける範囲からは、コミュニティが消滅している。
アメリカの市当局が社交や娯楽のニーズに対して十分な支援を行っていたら、アメリカの坩堝はもっと溶け合っていただろう。ほとんど、あるいは全くお金をかけずに自由に楽しく交流ができる、健全で懐の深い繁華街の環境を提供していたら、アメリカ人は今頃もっと健康的で結束の固い国民になっていたかもしれない。
◆サードプレイスの伝統は男性優位である。男性のサードプレイスは女性ばかりか家庭全体からも切り離されているのに対し、女性同士の集まりはたいてい子連れである。女性は子どもから目が離せず絶えず「仕事中」だから、女性は酒を飲んだり、騒いだりすることがずっと少ない。また、男性も女性が同性同士でつき合うことに対し、偏見を抱いている。
アメリカで新中流階級(=転職によって国内を転々とする専門職者や雇われ経営者)が急増すると、夫婦は結婚生活をできるだけ実りのあるものにし、親密度を高めようとした。その結果、男性優位のサードプレイスも大きく衰退した。しかし、夫婦の時間が長くなるにつれて、夫婦間には別の緊張が生じるようになった。
その緊張を解くためにもサードプレイスは必要であるものの、サードプレイスが男女を統合するのには限界があり、むしろ男女を分ける働きがある。男女が釣り合っていて、満遍なく入り交じり、異性が一番の関心であるところでは、性的な興味が優位に立つ。それはそれなりに魅力的であるかもしれないが、サードプレイスではない。男女別のサードプレイスで活力を得た男女は、配偶者との性的関係に刺激を感じやすくなる。その意味で、男女別のサードプレイスは、異性愛関係を支えているという見方もできる。
◆大人が職場に没頭し、前述の都市計画によって住宅の近隣からコミュニティが消えたことによって、子どもや若者は居場所を失った。それを問題視する大人は、子ども専用の場所を作るのだが、それは子どものためというよりも、大人の周囲にいてほしくない場所から子どもを締め出すためであった(例えば、義務教育の年限延長によって子どもを学校にとどめ置く、など)。組織化され、スケジュール管理の下にある子どもは、うつ病を発症するリスクが高まる。
現在の若者にとっての行き場所は、ショッピングモールぐらいしかない。ショッピングモールの経営者は、ショッピングモールを侵食する若者を正当化するため(若者からも収益を上げるため)、自らの価値観に若者の価値観を融合させることにした。すなわち、人生の目的は買い物をすることだ、ということである。こうして、ショッピングモールは若者にとって、消費主義と高度に管理された環境を、受動的に受け入れるための基礎訓練の場となる。
◆私はアメリカ人の人生観と態度に、最終的な変化が少なくとも3つ起こると予測している。①自動車で郊外に買い物に行かなければならないのは、本当の意味での便利ではない。家のすぐ近くの施設を利用できることの方がずっと便利だ。徒歩で定期的に通うことによって、地域住民は気軽な社交の環境を作り出し、その恩恵を受けられると気づくだろう。
②アメリカでは自己啓発本が人気だが、個人の努力だけで幸福になるのには限界がある。人間は社会的生物であり、公共空間や公共生活に対して全く新しい期待が浮上するだろう。③空間と人間関係の結びつきについて、アメリカ人は注意を払ってこなかった。しかし、人間がまず自分たちの環境を形作り、その後環境が人間を形作り制御する。そのことをアメリカ人が理解した時、精神科医より建築家を目指す人の方が多くなるに違いない。
《感想》
昨今注目を集めている「サードプレイス」という概念を最初に提唱した社会学者レイ・オルデンバーグの著書です(原著の初版は1989年)。サードプレイスとは、家庭(第一の場)や職場(第二の場)とは別の、居心地のよい第三の居場所のことです。ストレスや精神的不安を軽減し、生活に潤いを与えると言われています。
サードプレイスと言えば、町中にある個人経営のカフェやバーなどを思い浮かべるとよいでしょう。そこには昼となく夜となく地域の人々が集まり、会話を楽しみます。会話の内容は日常生活に関する事柄に始まり、お互いの趣味や仕事のこと、そして時に政治の話題にも及びます。サードプレイスは単なる息抜きの場として機能するだけでなく、政治的空間でもあるわけです。
本書を読んで興味深かったのは、アメリカでこのようなサードプレイスが減少しているという著者の問題意識でした。アメリカ人は家庭と職場を往復するだけの生活を送っており、窒息しかかっていると言います。アメリカは歴史家トクヴィルがかつて『アメリカのデモクラシー』で描写したように、草の根の民主主義が広範に根を下ろしている国だと理解していた僕にとっては意外でした。
よく考えてみると、経済発展を優先させたアメリカは、企業(特に大企業、グローバル企業)が突出して大きな力を持つ国です。職場の仕事で経済的な成果に集中するアメリカ人は、政治的貢献の場を失っていたのかもしれません。
そこで、マネジメントの父であるピーター・ドラッカーは、人々の市民性の回復を非営利組織に託しました。ドラッカーは、企業のコンサルティング以上に非営利組織のコンサルティングに尽力し、そこで得られた知見を『非営利組織の経営』としてまとめています。しかし、著者の考えに従えば、非営利組織もまたフォーマルな空間であり、企業と変わらず息苦しい環境であるのかもしれません。
ただ、個人的にはこの図は「やや気持ちが悪い」と感じます。家庭と職場を弁証法的に止揚した結果、サードプレイスという概念が生まれた、という説明ができないからです。言い換えると、家庭には「AはあるがBはない」、職場には「BはあるがAはない」、しかしサードプレイスには「AもBもある」という形にならないのです。
そのような説明ができるよう、僕は以下のように図を描き変えてみました(ただし、この図も暫定版です)。

家庭は「メンバーの流動性が低いが、冗長性が認められる場」です。家族のメンバーはほぼ固定されており、凝集性が高いです。一方で、家族生活に効率を求める人はそれほどおらず(家事ぐらいは効率的にやろうとするでしょうが)、ムラやムダ、重複が許容されます。親の思い通りにいかない(むしろ、思い通りにいかなくてよい)子育てなどはその典型です。冗長性があるため、何か成果に追われることはない反面、メンバーの凝集性が高いがゆえに容易にはその場から逃げられず、息苦しさを感じる原因となります。
職場は家庭とは逆に、「メンバーの流動性は高いが、冗長性が認められない場」です。職場の人間には入れ替わりがあります。かつては凝集性が高い時代もありましたが、現在は容易に転職ができる時代となりました。そして、言わずもがな、職場では効率的に成果を上げることが求められます。これが息苦しさの原因であり、逃避するために転職をすることは可能です。しかし、転職先でもやはり効率を要求されるため、職場にいる限り息苦しさは続きます。
家庭の冗長性、職場の流動性というよさを合わせ持つのがサードプレイスです。メンバーは自由にその場に出入りすることができます。決まった参加資格はなく、多様な人々が集まってきます。人々の会話に目的はなく、まるで無計画、非効率、非論理的なコミュニケーションでありながら、偶発的な接触、連結によって様々な価値が生まれるのです。
(蛇足ですが、「メンバーの凝集性が高く、効率性が重視される場」としては、監獄が挙げられるのではないかと考えます)
僕は、人間が人生を通じて創出する価値には4つの次元があると考えています。政治的価値、経済的価値、社会的価値、文化的価値の4つです。そして、通常はそれぞれの価値をそれぞれの制度や空間、活動を通じて実現します。政治的価値は選挙を通じて、経済的価値は職場を通じて、社会的価値は家庭や学校を通じて、そして文化的価値は趣味を通じて、といった具合です。

サードプレイスのよいところは、4つの価値を全て創出し得る可能性を持っているという点です。政治的価値については前述しました(著者によると、サードプレイスに政治的価値があるために、時の為政者はサードプレイスから反権力の動きが生まれることを警戒して、サードプレイスを取り締まろうとしたこともあるそうです)。また、サードプレイスでの人間関係を通じて、信頼という社会的価値が醸成されます。さらに、創作的活動に従事する人たちが集まれば、文学的・芸術的な作品がインスパイアされるという文化的価値も生じます。
1点だけ、経済的価値については、著者はこんなことを述べています。
サードプレイスに関わることの利益を細かく論じる際、わたしは金銭面については詳しく触れないつもりだ。とはいえ、それは往々にして重要なのかもしれない。人と人とが意気投合して定期的に会うようになれば、きっと物をやりとりしたり、道具や本などを貸し借りしたり、ときには時間や労力を差し出したり、物やサービスについての有益な情報を交換したりするようになるだろう。
サードプレイスが、いわゆる地下経済活動〔訳者注:公の統計に現れてこない経済活動〕と大いに関わりがあるのは間違いないと思う。だが、いくらその種の集団が互助会になるとはいえ、金銭上の利益は二次的なものだ。手助け、忠告、節約は付随的なものであって、サードプレイスの人の輪の形成や、それらを支える魅力の要因にはならない。(p99)
僕は最近、「新しい日本的経営」というものを構想しています。ドラッカー流の合目的的、合理的、論理的な経営を「伝統的経営」とするならば、「新しい日本的経営」とは人間関係がもたらす偶然、運、直感、身体知を重視する脱目的的な経営です。そして、サードプレイスという概念は、「新しい日本的経営」と親和性が高いと感じています。
「新しい日本的経営」を考えるにあたって、僕が直面している最大の壁の1つは「どうやってマネタイズし、事業に持続可能性を持たせるか?」という点です。もしもサードプレイスが経済的価値も十分に生み出すことができるのであれば、「新しい日本的経営」がまた一歩完成に近づくような気がします。
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