新しい日本的経営(イメージ)

今回は、ここ数年僕が頻繁に口にしている「新しい日本的経営」について、1本のまとまった記事として書いてみたいと思います。

「新しい日本的経営」の全体像を明らかにする前に、「伝統的経営」について整理しておきましょう。「伝統的経営」は、マネジメントの父であるピーター・ドラッカーに始まり、『ビジョナリーカンパニー』シリーズで知られるジム・コリンズによっていったん完成した(と僕が考える)経営スタイルです。

「伝統的経営」の出発点は、創業者や経営者の人生を変えるような強烈な原体験に基づく明確な経営理念です。経営理念は、「誰々の何々という痛みに心を締めつけられた。だから、社会から何々という課題をなくしたい」という形式を取ることが多いです。この経営理念こそ、組織のゆるぎない目的となります。

そして、「この経営理念を実現する上で重要な顧客は具体的に誰か?」という問いに答える形でターゲット顧客が決まります。顧客のニーズを満たす製品・サービスを開発・提供する上で必要となる強みを組織的に獲得するとともに、社員に経営理念を浸透させることで組織の一体感を高めることが成功のカギです。戦略は論理的に計画され、合理的に実行されます。企業のパフォーマンスを測る重要な指標は効率、生産性です。コストを下げ、付加価値を上げることにより、企業は十分な利益を確保します。

しかし、「伝統的経営」にはいくつかの問題点があると感じています。まず、組織が明確な経営理念や目的を掲げることは、それらに合致しない社員や顧客を排除することにつながります。実際、かつてのGEは「9Block」というフレームワークを使って、「ハイパフォーマーだが組織の価値観に合致しない社員」を意図的に解雇していました。

「伝統的経営」は徹底した顧客志向の経営です。ところが、顧客志向が行きすぎると滅私奉公のようになり、社員の心身をすり減らしてしまいます(最近、「お客様は神様である」という言葉に違和感を覚える人が増えてきました)。また、ドラッカーは、強みとは市場での競争に打ち勝つための卓越性だと定義しましたが、そのレベルで強みを獲得できる企業はむしろ少数派でしょう。

さらに、論理的・合理的な戦略を立案することは、企業にとって荷が重い作業です。そもそも、これだけ不確実性が高い現代において将来を予測することは不可能であり、論理的に筋の通った戦略ストーリーを描くことにはほとんど意味がなくなってしまいました。加えて、パフォーマンスを測る指標として効率や生産性を用いると、社員は常に数字に追われている感覚に陥り、仕事の楽しさを見失う恐れがあります。

「伝統的経営」は、一言で言うとマーケティングの経営です。そして、マーケティングと対になって語られることが多いのがイノベーションです。マーケティングの限界が見えてくるにつれてイノベーションの重要性が高まっていますが、僕が見る限り、イノベーションに強いのはアメリカ企業(特にGAFAM)が中心であり、そのイノベーションも「アメリカ型イノベーション」とでも呼ぶべき独特の経営スタイルを取っていると感じます。

「アメリカ型イノベーション」は、世界中の人々に行動変容をもたらそうという野心が出発点となっています。実際、Googleは検索エンジンによって情報収集のスタイルを、Amazonは巨大ECサイトによって購買消費行動を、MetaはFacebookによって人々のコミュニティを、Appleはスマートフォンによってコミュニケーションを、MicrosoftはWindowsによって仕事の進め方を大きく変えました。

「伝統的経営」ではターゲット顧客を絞り込む一方で、「アメリカ型イノベーション」は全世界をターゲットとします。そして、全世界で自らの野心を実現するために、卓越した技術と優秀な人材を世界中からかき集めます。そのためには莫大な資金を調達しなければなりませんが、魅力的な製品・サービスによって世界中から相当数のユーザ数を獲得できる見込みが立てば、資金調達は可能です。だから、「アメリカ型イノベーション」で注視すべき指標は、ユーザ数と資金調達の額です。

ユーザ数の獲得が現実のものとなりさえすれば、マネタイズする方法はいくらでもあり、株主に十分な還元を行っても、自社にはあり余るほどの利益が残るとアメリカ企業は考えます。そのゴールに向けて、ムーンショットで高い目標を掲げ、その目標からバックキャスティングによって長期のロードマップを描く、というのが「アメリカ型イノベーション」のやり方です。

日本からは世界を変えるほどのイノベーションがなかなか生まれない」としばしば言われます。その原因は、経営スキルに差があるためだとか、日本では失敗を許容しない組織文化が根強いためだとか、イノベーションを取り巻く社会環境や制度に違いがあるため(例えば、日本はアメリカに比べて資金と人材の流動性が低い)だとか、様々に分析されています。

ただ、個人的には、一番の要因は思想レベルにあるような気がしています。僕は、「アメリカ型イノベーション」は、西洋が普遍的価値としている自由、平等、博愛と、アメリカ独自の哲学であるプラグマティズムが融合した結果ではないか?という仮説を立てています。

「伝統的経営」には限界があり、「アメリカ型イノベーション」はほとんど真似できないとなった時、第3の道として僕が思い至ったのが「新しい日本的経営」です。①明確な経営理念や強みがなくても、②自分にできることや手持ちの手段から出発し、③人との相互作用から生まれる運や偶然を活かし、④直感、身体知、冗長性を大切にするような、⑤脱目的的な幸せの経営のことです。

「伝統的経営」や「アメリカ型イノベーション」が明白な目的志向であるのに対し、「新しい日本的経営」では敢えて目的を明確にしません。よって、目的を実現するための手段を因果関係によって導き出し、戦略を論理的に構想するような知的作業もしません。知識資本としての強みを獲得することもしません。

ただ、今自分・自社にできること、それも楽しんでできることにフォーカスし、それを軸に多様な人々が何となく集まって、その社会関係資本から直感的に偶発的な出来事が誘発され、紆余曲折がありながら、曲がりなりにも「負けない程度」に事業が成り立つような経営を目指します。社会的責任を能動的に果たそうという発想もありません。理想は、企業のステークホルダーがそれぞれに楽しいことをわいわいがやがやとやっていたら、自然と社会課題が消えていた、という状態です。

僕が「新しい日本的経営」の着想を得たきっかけは、実は大泉洋さんの出世作である「水曜どうでしょう」でした。どうでしょうは旅番組です。本来の旅番組には、ある土地に行って観光名所を紹介するというはっきりとした目的があり、その企画に忠実に従って番組が進行していくものです。

ところが、どうでしょうの場合、一応は旅の目的地が設定されているものの、そこに行くことが番組の趣旨ではなくなっています。例えば、「ヨーロッパ・リベンジ」で見てみると、北欧4か国を1週間かけてレンタカーで回るという旅の目的はいつしかどうでもよくなっています。

むしろ、初日にしてドイツの田舎道でキャンプすることになった事件や、道中で購入した「ムンクさん」という人形を使って撮影を始めた即興ドラマ「フィヨルドの恋人」さらにはあまりに退屈な風景が続くことに嫌気が差して大泉さんが精神錯乱を起こすことなど、途中のプロセスでどうでしょう班4人の関係性から偶発する台本なき出来事が番組の中心となり、視聴者の心を癒してくれます。

「新しい日本的経営」は、端的に言うと運と縁を頼りにしたいい意味での場当たり的な経営です。目的と手段、成果と施策との間の因果関係を曖昧にするという点で、ポストモダニズム的でもあります。その全体像を言葉(ロゴス)で説明しようとする僕の試みは困難を伴い、一種の矛盾さえはらんでいるのですが、それでもその試みを前に進めるとして、僕は一般的な経営におけるPDCAサイクルに代わる「STARサイクル」なるものを考案しました。

まず、何でもよいので人々が集まれる状況を作ります(Situate)。どうでしょうで言えば、藤村Dが3人に対して「旅に出よう」と号令をかけるところから始まります。状況ができたら、あとはいったん流れに身を委ねて放浪します(Tramp)。どうでしょうの旅に計画がなく、運任せであることは前述しました。

すると、思いがけない人たちが集まってきます。彼らとコミュニケーションを重ね、お互いのことを前向きに評価し合います(Active Feedback)。相互理解が深まったら、この人とあの人をつないで新しい活動を起こすのです(Relate)。そして、その活動が新たな状況となり、最初のSituateに戻っていきます。

どうでしょうは今や北海道のローカル番組という枠を超え、様々なグッズを全国で販売し、各地でイベントを開催する巨大なコンテンツ産業に発展しました。これらの事業は、どうでしょうに惹かれてやって来たクリエイターたちとのつながりから発生したものです。どうでしょうをいち番組としてだけでなく、コンテンツ産業として大きくとらえると、STARサイクルが浮かび上がってきます。

「新しい日本的経営」には明確な(そして、それに賛同しない人を排除するような)経営理念はありません。ただ、僕自身は、現在の生活拠点がある茨城県土浦市で「新しい日本的経営」を実践する起業家や経営者を増やし、土浦を楽しみと幸せで満たしたいとささやかながら願っています(楽しさや幸せに賛同しない人はまずいないでしょう。僕の願いは当たり前すぎるので経営理念でも何でもありません)。

たいていの企業は、創業したての頃は夢に満ちており、どんな仕事でも楽しくやれるものです。しかし、そこから「伝統的経営」で高い業績を目指そうとすると、生みの苦しみを味わうことになります。「アメリカ型イノベーション」でさらに高みを狙うならば、その苦しみはもっと大きくなります。経営が成功し、思い通りの業績を実現できれば、それまでの苦しみが報われて楽しさが得られることでしょう。しかし、苦しみが報われないリスクも大いにあります。

「新しい日本的経営」で実現したいのは、「伝統的経営」や「アメリカ型イノベーション」ほどの業績までは行かないないかもしれないけれども、仕事や経営をしていること自体が創業期と変わらず楽しいままでいられるような、幸せな人生なのです。