プラグマティズムとイノベーションの共通項(ブログ用)
《要点》
◆哲学思想としてのプラグマティズムは、当然ながら我々の認識の正しさや真理性の特徴を明らかにすることを課題とする。しかし、この課題を果たすためにこの思想が行うのは、認識の真理性の絶対的な根拠を求めることでもなければ、その可能性の理由を定義することでもない。

プラグマティズムが問おうとするのは、真理を求めようとする場面にあって、我々人間が採用すべき対話の形式や、問答の枠組みのあり方である。それは真理や価値の最終的な決定であるよりも、その「追求」のスタイルの反省である限りにおいて、開かれた柔軟な哲学という特徴を持っている。

◆「プラグマティズムとは何か?ということについては、プラグマティストの数だけの答えがある」と言われる。しかし、論理実証主義に代表されるような、実証主義特有の「事実と価値の峻別」という大原則(=外的な世界に関する端的な科学的真理としての事実的真理以外に、道徳や美的な価値に関する真理といった、別のタイプの真理などありえない、という原則)を認めないという点では共通している。

また、この思想は一般に、言葉の「定義」というものを高く評価すべきでないと主張する。様々な思想の「内容」、「意味」、「意義」は、その思想の名称にあるよりも、それが応用され、活用される場面で、具体的な利用の文脈の下でのみ、はっきり理解されるということが、この理論が主張するテーゼの1つの重要な柱となっている。

哲学としてのプラグマティズムは、「反デカルト主義」と「多元主義」という非常に大胆な主張を持っている。反デカルト主義ということは、西洋近代の祖であるデカルト的発想を根本から批判して、哲学の新しい時代を開くということである。また、多元主義的な真理論を提唱することも、客観的な真理の一元性を謳い上げてきたニュートン的西洋近代の科学観に、強烈な異議を唱えることを意味している。

【第1章:源流のプラグマティズム】
《パース》①デカルトの認識論的出発点をなしている「普遍的懐疑・方法的懐疑」という発想は、そもそも無意味かつ不可能である。人間の精神には、内観によって透視できるような意識の内面などない。我々の思考は記号に媒介され、物質的な側面を消去できず、外界への指示的関係を持たざるを得ない。外界と隔絶したコギトとしての「私」などない。

②デカルトにおいては、懐疑の末に「明晰・判明な観念こそ真理である」という原理が立てられた。しかし、懐疑が無意味であるならば、「観念の明晰性」について別の格率が立てられる必要がある。我々の思考内容を、実践や行動に臨む自分にとっての有意義さの観点からはっきりとしたものにするべきである(「プラグマティックな格率」)。

③この基準の下では、観念が明晰であることは、そのまま真理であることを意味しない。真理は、複数の探究者の意見や信念を相互に批判的につき合わせ、その合意に従ってさらなる探究を企てるという科学的探究によって追求される。パースは、いつの日か全ての信念が総合的に体系化し、考えられる最高度の調和を体現するのであって、それが真理であると考えた。

《ジェイムズ》明白な根拠や理由なしに行為に至るのは倫理的に悪だとされる。しかし、ジェイムズによれば、我々が行為に赴くために抱く様々な信念に関して、たとえ十分な証拠を持っていなくても、場合によってはそれを信じようと意志する「権利」がある。

②真偽は事実(例:「ダイヤモンドは硬い」)のみならず、価値(例:「他人を助けることは善いことである」)にも関わっている。我々が抱く観念や信念が真理であるのは、それが有用であるからであり、我々がそれを行為において充足し、真理化することが可能であるからである。信念が言葉のレベルにとどまらず、現実の世界で「現金化」して、我々が自分の行為に活用できるならば、まさに真である。

③この真理論を擁護するには、我々は認識の主観客観の区別や、真理の多元性の可能性について再考する必要が出てくる。ジェイムズはこれらの問題について論じるために、純粋経験の理論、多元的宇宙のビジョンなどからなる存在論を展開した。

《デューイ》①経験の領域を「a.純然たる外界の万物流転の世界」と「b.自然を超越した永遠不変、確実性の世界」に分け、後者に対してのみ傍観者的に普遍の真理を確立しようとしてきたプラトン以来の哲学(そこにはデカルトやカントも含まれる)を批判した。

②パースの「探究の論理」という発想をこの哲学の中心的な思想と理解して、その議論をもう一度復活させる一方で、我々の経験や理性の持つ「実験的な性格」を強調すると同時に、その言語的・社会的な性格にも注目した。

同時にジェイムズが表明した事実と価値の区別に対する批判を継承して、我々の経験が未来に開かれた、非決定的な性格を持つことを主張した。デューイは、パース的な経験についての実験主義的な見方は、社会についての「民主主義的な」追求と重なることを強調した。これは、パース的な探究の論理に対する「社会的・政治的な転換」だと理解することができる。

【第2章:少し前のプラグマティズム】
◆アメリカ哲学の20世紀は、非常に単純化すれば、プラグマティズムから論理実証主義へ、そしてネオ・プラグマティズムへ、という思想の交代劇として見ることができる。

論理実証主義とプラグマティズムは、信念や認識の経験的有意味性を重視して、アプリオリなもの、原理的なものをできるだけ排除しようとする点では共通する。一方、論理実証主義においては、真偽を問い得るものは事実によって検証できるものに限られ、真理に価値的観点が関与しないが、プラグマティズムにおいてはそもそも事実と価値という二分法そのものが哲学的偏見であるとする。

《クワイン》①論理実証主義は、(A)経験的言明はその1つ1つについて、感覚的経験に結びついた(つまり実証的な)言明に帰着させることができる、(B)分析的命題(アプリオリな命題)と総合的命題(経験に基づく命題)は明確に区別できる、とした。

これに対してクワインは、まず世界に関する様々な経験的言明の検証においては、個々の単独の命題と事実との照合は不可能であり、検証は信念のネットワーク、言明のシステム、あるいは体系的理論の全体という形でしかあり得ないと説いた。そして、総合的な命題の意味が単独では決定できないように、一見分析的な命題も、それがアプリオリに真であるかどうかは簡単に決まらず、分析的・総合的という区別自体が無意味であるとした。

②ある人が何らかの言葉を発する時、当の本人は自分自身の信じる命題を表明しているはずである。しかし、聞き手はあくまでそうであろうと推定しているだけで、話し手の命題に関しては多元的な解釈が可能であり、その命題の真理も不確定であることが暴露されている。これを「根底的翻訳の不確定性」と呼んだ。

《ローティ》①これまでの西洋の哲学史について、プラトンからデカルト、ロック、カントまで一貫する特徴を、認識論における基礎づけ主義、真理についての本質主義、言語に関する表象主義として性格づけた上で、それぞれが既に破綻したものであることを主張し、反基礎づけ主義、反本質主義、反表象主義を説いた。

②プラグマティズムは真理という概念に関して、科学から文学、道徳、政治まであらゆる知的活動を全て優劣のない、平等のものとする多元論を採用した。客観的真理を追究するとされる科学が、他の知的活動に対して優位に立つ根拠はない。とはいえ、それが「人間の連帯の模範」となるという意味では、科学の価値は高いとも言える。この考えによれば、客観的真理とは「人々が連帯という形で共有し得る信念」の別名である。

③真理が社会的な連帯という意味しか持たないのであれば、それは個々の文化や地域、時代に固有の真理しかないという相対主義となり、場合によっては客観的真理には何も意味がないというニヒリズムにもなりかねない。しかし、ローティはこの懸念を真剣に考慮する必要はないとする。彼は自分の立場を「自文化中心主義」と規定した上で、批判をかわすために、クーンのパラダイム論やデイヴィドソンによるメタファー論を援用する。

《パトナム》パトナムは生涯を通じて目まぐるしい変転を繰り返した哲学者である。科学的実在論から内在的実在論を通って自然的実在論へという変化の方向は、客観的知識の確実性や独立性に対する確信から、それについての懐疑の深まりの過程でもある。それは、事実と価値の二分法への批判をだんだんに強めていく方向であり、理論理性の重視から実践理性の優位へと移行するプロセスでもある

②デューイが採用した「保証つきの言明可能性」という発想を踏襲しつつ、それを「理想的な状況における保証つきの言明可能性」へと修正し、「収束」としての真理というパース流の概念を有意味とした。デューイ+パースによって、相対主義と科学主義という2つのイデオロギーの両方を批判した。つまり、科学主義の方向を完全に消すことができなかったクワインも、相対主義に大きく傾いたローティもともに批判したのである。パトナムは、左右に行きすぎたネオ・プラグマティズムのちょうど中間を目指すことで、古典的プラグマティズムの知恵をもう一度復活させようとした。

③ローティの自文化中心主義はやはり相対主義であり、プラグマティズムという思想伝統のよき面を見落としている。そして、ジェイムズの真理説が本来持っていた実在論としての性質を理解することが重要である。それとは別に、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム理論」にも注目する。これは一見するとローティの自文化中心主義と似ているが、言語を通じた相互の理解という生の営みの中で、人間の経験の中に行き渡っている「善きもの」を受け入れようという試みであると解釈した。

【第3章:これからのプラグマティズム】
◆21世紀のプラグマティズムは、ローティによって一方向へと行き過ぎてしまった運動を、もう一度古典的なプラグマティストたちの重要性を再評価する方向へと転換させようとしている。ローティなどが依拠した、「連帯や共同体の重要性の認識」か「哲学的正当化の承認」かという選択的問題の設定は、実は誤った二分法によるものである。そして、パースを再評価する流れとなっている。

《ブランダム》①会話は、信念へのコミットメントとそれに付随して生じる権利の付与を本質的に含むという意味で、規範的な行為である。会話は規則にそってなされるが、その規則は文章を作る文法的・統語論的規則ではなく、複数の主体の間での信念やコミットメントとそれに付随する権利をめぐる、ギブアンドテイクの関係を支配する規則である。こうした言語理解を「規範的語用論」と呼ぶ。

②規範的語用論のモデルは、その表裏一体の意味の理論として、「推論的意味論」を含意する。ある人が発話する文の意味は、それと両立可能であるような他の文に対して、2人が認めるような推論的関係を示すということである。それぞれの文は、そこから推論の可能性を付与するような、他の文との関係において有効な役割を果たす。

③規範的語用論と推論的意味論を基盤として、ある命題が「真である」という規定を導くために、「真理をめぐる代用文理論」を提唱した。会話においては、代用文(ItやHeなど)が別の文の代用の役割を果たす。真理とは、前の文の代用を用いた、承認を表す表現作用である。また、ブランダムの真理観はヘーゲル的な要素も持っている。道徳や法などは、カントが言うような超越界にあるのではなく、社会的実践の中にある。その意味で、信念の真理を確保するためには社会的実践が必要であると説いた。

《ティエルスランとマクベス》真理の客観性という基本的問題をめぐる議論として、パースの数学思想への関心が高まっている。さて、数学の世界には「プラトニズムのジレンマ」と呼ばれるものがある。

(A)数学的対象は一般に、個々の言語や時空的特性、あるいは人間の精神から独立した抽象的存在である(プラトン的な見方)。
(B)他方、我々の知識とは一般に、認識されている対象との因果的コンタクトに基づいて正当化された知識である、と普通に理解されている。したがって、抽象的対象である数学的対象は、通常の意味での知識の対象とはみなし得ない(経験主義の立場より)。
(C)それゆえ、数学的対象に関する認識は、普通の意味での真理とはなり得ない。

この結論を回避して、数学的対象に関する真理の可能性を確保するには、2つの方向がある。1つは、数学的対象がある種の抽象的なものであるとしても、経験的な知覚の次元と結びつき得るとする立場、つまり(A)から(B)への推理を否定する立場である。もう1つは、対象についての経験的・因果的結びつきを拒否しても、その真理の可能性を認めるべきだとする立場、つまり(B)から(C)への推理を否定する立場である。

ティエルスランは、パースの数学思想が前者の方向であると解釈し、マクベスは、パースが後者の方向を採用していると解釈した。

《ハークとミサック》マクベスは、プラトニズムのジレンマという問題提起や、ネオ・プラグマティストたちの客観的真理の不可能性が誤った二分法を前提にしているとした。この二分法は「対象が我々から独立に存在する限り、我々はそれに認識や言語を通じて接近できないはずだ」という誤った思い込みに拠っているわけだが、この種の批判は、知識の合理性や正当化の問題の議論一般に見られる、アプリオリとアポステリオリ、原因と理由、外的関係と内的関係などの二分法にも適用できるだろう。

そこで、こうした発想から、認識論の可能性をもう一度初めから考え直すべきではないかと主張したのがハークとミサックである。

ハークは、認識論は一種のダブル・アスペクト説を採用すべきだ、と主張した。信念がよい証拠に基づいて正当化されるということの実質的な意味は、それが外的な事実との対応関係を持つとともに、複数の信念間の整合性を保持していることである。言い換えれば、信念の正当化の作業には、外からの知覚的情報の取得という意味での「原因」と、認識者の手元にある複数の信念の論理的整合性という意味での「理由」とが、互いにより合わさった形で関与する(「基礎づけ的整合説」)。

ミサックは、パースの言う真理と探究との間には密接なつながりがあることを確認した上で、道徳的・政治的信念に関しても、理論が唱える個々の価値判断、法の正統性、統治の基準や諸々の政策についての合理性や真理の評価と、それらを見出す闘技、合意、論争、反省という探究の方法との間に、相補的な支持関係が成り立っている必要があるとした。これは、探究の論理がその認識論的根拠からして、政治や社会道徳の「討議的民主主義」の採用を推奨する、という議論につながる。

《感想》
アメリカ特有の哲学である「プラグマティズム」について、出発点となった3人のプラグマティズム(パース、ジェイムズ、デューイ)、20世紀のプラグマティズム(クワイン、ローティ、パトナム)、21世紀のプラグマティズム(ブランダム、ティエルスラン、マクベス、ハーク、ミサック)という3部構成で解説された1冊です。

プラグマティズムとは、非常に簡単に言えば、物事の真理を「理論や信念」ではなく「行動の結果」で判断する哲学的思想です。 換言すると、「実際に役立つかどうか」を基準とする考え方のことです。 日本語では「実用主義」や「実際主義」とも訳されます。

ただし、本書でも「プラグマティズムとは何かという問いに対しては、プラグマティストの数だけ答えがある」と述べられているように、この説明はプラグマティズムの一面でしかありません(この説明は主にジェイムズの考え方によるものです)。

「実際に役立つものが真である」という主張からは、真理の多元主義・相対主義が導かれますが、それらを極端に推し進めたローティのようなプラグマティストもいれば、21世紀に入ってプラグマティズムの祖であるパースを再評価し、それでも客観的真理が成立するとしたらどのような条件の下でなのか?信念の正当化はどのように可能となるか?を追求したプラグマティストもいます(本書の第3部がその説明にあてられているものの、正直に言って哲学的素養が低い僕にはかなり難解でした)。

今回、プラグマティズムの本を読んだのは、「アメリカ型イノベーション」の成り立ちを考察する一環としてです。僕は、アメリカ”だけ”が(ラディカルな)イノベーションに強いのは、自由・平等・博愛という西欧の普遍的価値観がアメリカにおいて独自の文化的基盤を形成していること、そしてそこにアメリカ特有の哲学であるプラグマティズムが接ぎ木されたことの2つが大きな要因ではないか?という仮説を持っています。

本書を読んで、プラグマティズムとアメリカ型イノベーションには7つの共通点があると感じました。

①有用なものが真:プラグマティズムでは、真理を絶対的・普遍的なものではなく、実際に機能し、望む結果をもたらす限りにおいて真であると見なします。この態度はアメリカのイノベーション文化に強く反映されています

アメリカ型イノベーションでは、新しい技術やビジネスモデルの価値は理論的な正しさよりも市場での実効性で判断されます。シリコンバレーの「Fail fast, fail forward(早く失敗し、前進せよ)」という行動原則は、実験的に試し、結果が役立つかどうかで判断するプラグマティズムの精神を体現しています。アメリカには、「役に立つ=真理」という価値基準を制度的に組み込み、市場という実験場で有用性を証明し続ける文化があります。

②未来志向の経験主義:古典的経験主義が「観察によって世界の知識を蓄積する」立場であったのに対し、プラグマティズムは経験を行為と結果を含む動的な過程としてとらえます。パースやジェイムズ、デューイらによれば、経験とは「受動的に与えられるもの」ではなく、「世界と関わる中で得られる相互作用的プロセス」です。つまり、我々は環境に働きかけ(行為)、その結果を受け取り(結果)、そこから学び(反省)、次の行動を選択します。この循環が経験の本質です。

アメリカ型イノベーションは「一度の正解」によって達成されるものではなく、市場や顧客との対話を通じて進化する動的プロセスです。このことは、プラグマティズムが失敗を否定せず、むしろ次の行動を洗練させるための情報資産として評価することを意味します。アメリカ型イノベーションがリーンスタートアップやアジャイル開発、最小実行可能製品(MVP)に見られる「小規模実験と迅速なフィードバック」を重視するのはそのためです。

③信念は改訂されていく:プラグマティストは、デカルトが主張したような「確実な基礎を持ち、一切の疑いを入れない知識」というものを拒否します。プラグマティズムとは、信念には誤っている可能性があることを認め、常に改訂に向けて探究(inquiry)を続ける哲学です。

GAFAMに代表されるアメリカ型イノベーションは世界制覇を目的としており、世界中で革新的な製品・サービスが使用され、人々の行動様式を変容させることを目指します。イノベーションは、世界に浸透した時点で真です。しかし、どんなイノベーションも、未来永劫の成功が約束されているわけではありません。実際、現在のGoogleはOpen AIなどによって脅威にさらされています。あらゆるイノベーションは、将来的により優れたイノベーションによって”上書き”される可能性に開かれているのです。

④反表象主義:「表象主義」とは、我々の心の中に世界の正確な写し(表象)が形成され、それが外界の真理を反映すると考える立場です。真理は、この表象が現実とどれだけ一致しているかで判断されます。一方、プラグマティズムの「反表象主義」は、知識を外界のコピーとは見なしません。その点で、外界の知覚の方法は人それぞれということになります。

アメリカ型イノベーションは、従来の人々の行動様式、産業・業界の慣行やルール、ビジネスモデルなどを否定するところから始まります。多くの人にとっては当たり前のことが、一部のイノベーターには当たり前には映らないような一種の認知の歪みが、イノベーションの着想を生むのです。

いわゆる「10X企業(既存の10%増といった改善ではなく、10倍の成果を目標に設定し、大胆なイノベーションを追求する企業)」を研究したジム・コリンズは、10X企業のリーダーに「建設的パラノイア(偏執病)」という性質が見られると指摘しました。これは、成功体験に慢心せず、常に最悪の事態を想定し、警戒や危機管理を怠らない姿勢のことです。建設的パラノイアにとらわれたリーダーは、「今自分に見えている世界はどこかおかしいのではないか?」と常に猜疑心を持って注視しています。

⑤信念のネットワーク:伝統的な哲学では、事実と真理は1:1の関係になっていると理解しますが、プラグマティズムにおいては、個々の信念が孤立して存在するのではなく、相互に関連し合い、全体として一つの体系を形作っていると考えます。これはパースやクワインの議論に近く、ある信念の修正は他の信念にも影響を及ぼします。真理はこのネットワーク全体の中での整合性と有用性によって判断され、固定的な基盤ではなく、経験や行為を通じて部分的に更新され続けます。

イノベーションは、単に革新的な製品・サービスを作るだけでは成立しません。製品・サービスの製造・開発に必要なビジネスパートナーとのコラボレーション、製品・サービスを販売するネットワーク、補完財を製造・販売する関連産業の育成、そして、それら全体を調和させるマネジメント上のイノベーションも必要とします。つまり、総合的に新しいビジネスエコシステム(生態系)を形成することがアメリカ型イノベーションの本質の1つなのです。

⑥事実と価値を峻別しない:プラグマティズムは、論理実証主義に代表されるような、実証主義特有の「事実と価値の峻別」という大原則(=外的な世界に関する端的な科学的真理としての事実的真理以外に、道徳や美的な価値に関する真理といった、別のタイプの真理などありえない、という原則)を認めません。真偽は事実(例:「ダイヤモンドは硬い」)のみならず、価値(例:「他人を助けることは善いことである」)にも関わっていると考えます。

もし、アメリカ型イノベーションが事実と価値を区別していたら、科学的真理に支えられた革新的な技術を開発しさえすればイノベーションと呼ぶことができたでしょう。しかし、実際には技術革新=イノベーションではありません。繰り返しになりますが、イノベーションは人々の行動を変え、価値観を変えます。そしてその変化が社会の伝統的な法や制度を揺るがし、社会の善の体系を更新していきます(SNSが人々の情報発信に関する態度を変え、選挙や民主主義のあり方を変えようとしているのが解りやすい例でしょう)。事実と価値を相補的に刷新するのがアメリカ型イノベーションです。

⑦相対主義と客観的真理のバランス:ジェイムズが提唱した多元主義を20世紀に入って極端に相対主義的な方向へ推し進めたのがローティだとすれば、パトナムがそれを客観的真理の方向へと揺さぶり戻し、さらに21世紀のプラグマティストがパースの再評価を通じて、客観的真理とは何かを改めて根源的に問うた、という流れになります。

以前の記事でも書きましたが、GAFAMのようなアメリカ型イノベーションは、「この解法を用いれば、世界中の人々が抱えている諸問題を一気に解決できる」という普遍的なコンセプトから入ります。一方で、GAFAMはユーザに対して個別の体験も提供しています。

つまり、Googleは「情報を探す」、Amazonは「購入する」、Facebook(Meta)は「人とつながる」、Appleは「遊ぶ」、Microsoftは「仕事をする」という我々の日常的な基本所作に対し普遍解を与えましたが、実際に情報をどう探すか、何を買うか、誰とどうつながるか、何で遊ぶか、どうやって仕事をするかに関しては、個人によるカスタマイズの余地が大きく認められているのです。GAFAMが全てプラットフォーム型のビジネスモデルを採用していることは偶然ではないでしょう。

プラグマティズムとアメリカ型イノベーションはともに、客観的真理・普遍的な解と相対主義・解の固有性という、一見すると矛盾する2つのバランスを追求しているように思えます。