アメリカ大都市の死と生(ブログ用)
著者のジェイン・ジェイコブズはアメリカのノンフィクション作家・ジャーナリストで、郊外都市開発などを論じ、また都心の荒廃を告発した運動家でもあります。本書『アメリカ大都市の死と生』(原著の出版は1961年)は最も反響を呼んだ1冊であり、都市計画研究の重要な古典と位置づけられているそうです。

「活気のある都市には何が必要か?」と問われて、皆様はどう答えるでしょうか?通常は、公園、学校、集客力のある商業施設、雇用を生み出すオフィス街などが思い浮かぶでしょう。ところが、ジェイコブズは本書の議論を「街路」からスタートさせています。街路で多様な人々が四六時中行き交うことが重要だと言うのです。彼女は街路に以下のような機能を期待しています。
公共的な監視の目を織りなして、それ自身だけでなく見知らぬ人々をも守る機能、小規模で日常的な公共生活のネットワークを育てて、結果として信頼と社会的コントロールのネットワークをつくるという機能、そして子供たちをそれなりに責任ある寛容な都市生活へと順応させるのを支援する機能。(p141-142)
逆に、いきなり大きな公園を作っても、その公園が特定の時間帯しか使われないと(例えば、公園の近隣に住んでいるのはファミリー層が中心で、日中の時間帯しか使われない、など)、人のいない夜の時間帯に犯罪の温床になると警鐘を鳴らします。

従来の都市計画の専門家は、計画的・合理的で効率的な都市をデザインしていました。例えば、エベネザー・ハワード(田園都市構想を打ち出し、近代都市計画の祖と呼ばれるイギリスの社会改良家)はこんな具合です。
まず、都市の機能を扱うには、全体からいくつか単純な機能を整理してふるい出し、そのそれぞれを概ね自己完結させることだと考えました。

立派な住宅の提供こそが中心的な問題だとしてそれに専念し、他のものはそのおまけだと考えました。さらに立派な家というのを、郊外で見られる物理的特徴や、小さな町の社会的性質だけで考えました。商業というのは、決まり切って標準化された財の供給だと捉え、しかも自ずと限られた市場だけを相手にするものと考えました。

よい計画というのを、一連の静的な行動だと捉えています。そのそれぞれにおいて、計画は必要なものすべてを予測しなければならず、いったん建設されたら、その後はごく最小限のものをのぞいてあらゆる変化から保護されねばならないと考えました。また都市計画を本質的に、権威主義まがいの世話焼き父権主義的な行為だと理解していました。(p35)
いわゆる分散派は、もっと算術的に都市デザインをとらえていました。
街路は人間にとって悪い環境である。住宅は街路に背を向けて内側の、保護された緑地に向くべきである。街路が多すぎるのは無駄で、物件価値を接近距離でしか測らない不動産投機家にしか意味がない。都市デザインの基本単位は街路ではなく街区、それも特にスーパーブロックである。

商業は住宅や緑地から分離されるべきである。物資に対する近隣の需要は『科学的』に計算されるべきであり、それに応じた商業空間さえあればよく、それ以上は不要。他人がたくさんいるのは、よくても必要悪でしかなく、よい都市計画とは孤立や郊外的なプライバシーを実現するか、少なくともそれらしく見せねばならない。(p37)
ル・コルビュジェ(スイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家)の輝く都市構想は、分散派とは表面的には大きく異なっていましたが、都市を父権主義的にデザインするという点では共通でした。
ル・コルビュジェはこう書きます。『たとえば大公園を通って都市に入ってみよう。早い栗間は、特別高架自動車道を走って壮大な摩天楼の間を抜ける。近づくにつれて、空を背景に摩天楼24本が繰り返されているのが見える。それぞれの区域の外周部には、行政管理棟が見える。そして空間を囲うように、美術館や大学の建物がある。町全体が公園だ』。

ル・コルビュジェの垂直都市では、人類のうち下々の連中はヘクタールあたり3000人が収容されます。すばらしく高密ではありますが、でも建物がとても高層なので、地面の95パーセントは空地のままにしておけます。摩天楼は地面の5パーセントしか占有しません。高所得者は、中庭を囲む低層高級住宅に暮らし、かれらは地面の85パーセントを空地にしておきます。あちこちにレストランや劇場があります。(p38)
ジェイコブズはこれらのいずれをも痛烈に批判しています。ハワードの都市計画は「都市を破壊する強力な着想」(p35)であり、ル・コルビュジェの輝く都市は「社会ユートピア」(p38)だと切り捨てています。本書を通じて彼女が一貫して主張しているのは、都市における多様性の重要さです。1日を通じて街路に多様な人々が絶えないような都市こそ理想であり、そのための条件を4つ挙げました。

【条件①:混合一次用途の必要性】
その地区や、その内部のできるだけ多くの部分が、2つ以上の主要機能を果たさなくてはなりません。できれば3つ以上が望ましいのです。こうした機能は、別々の時間帯に外に出る人や、ちがう理由でその場所にいて、しかも多くの施設を一緒に使う人々が確実に存在するよう保証してくれるものでなくてはなりません。(p176)
⇒言い換えると、住居・商業・仕事・娯楽といった異なる機能が同じエリアに存在することです。そうすれば、1日中人の流れが途切れず、昼も夜も街に活気があふれ、安全性が増します。逆に、オフィス街や住宅地のように「単一用途」に区切ると、昼だけ人が多くて夜は人がいない(あるいはその逆)といった「死んだ時間」が生じてしまいます。

【条件②:小さな街区の必要性】
ほとんどの街区は短くなくてはいけません。つまり、街路や、角を曲がる機会は頻繁でなくてはいけないのです。(p205)
⇒街路を短く区切り、交差点を多くすることです。細かいブロックだと歩行者が様々な道を選び、偶然の出会いや多様な店舗利用が促されます。巨大なブロック(大通りや再開発地区)では、人が長距離を直線的に移動するため、交流が生まれにくくなってしまいます。

【条件③:古い建物の必要性】
地区は、古さや条件が異なる各種の建物を混在させなくてはなりません。そこには古い建物が相当数あって、それが生み出す経済収益が異なっているようでなくてはなりません。(p214)
⇒高価な新築ビルだけでなく、家賃が安い古い建物も残すことです。新築は家賃が高く、資本力のある大企業や経済力のある人しか入居できません。一方で、古い建物は家賃が安いので、若い起業家や小さな商売、文化活動に開かれます。すると、都市全体で見れば異なる規模・資源の人々が共存し、多様な暮らし方が可能となります。

【条件④:密集の必要性】
十分な密度で人がいなくてはなりません。何の目的でその人たちがそこにいるのかは問いません。そこに住んでいるという理由でそこにいる人々の人口密度も含まれます。(p228)
⇒一定以上の人々が住み、働き、訪れる人口規模があることです。人口が多ければ、店や文化活動が成立し、人々の交流も自然に増えます。人が少ないと、事業やサービスが成り立たず、公共空間も閑散として安全性が損なわれてしまいます。

戦後のアメリカでは、前述した従来型の都市計画の専門家たちによる影響を受けて大規模な都市再開発が進み、オフィス街、住宅街、商業施設などが明確に分離されました。広い道路や巨大なブロック、高層ビル群は秩序や効率を象徴しましたが、その結果、街は「同じ時間に同じ人だけが集まる均質な空間」となり、昼はにぎわうが夜は無人になるオフィス街や、昼間は閑散とする住宅街が生まれました。

こうした空間では、人の流れが断絶され、偶然の出会いや異なる活動の重なりが起きず、防犯や活気の面でも脆弱になります。さらに、新しい建物ばかりの再開発地区は家賃が高いため、小さな商売や実験的な取り組みは排除され、都市の文化的多様性や創造性が失われていきました。

ジェイコブズにとって都市は、計画された合理性で管理されるものではなく、人々が日常的に交わり、多様な活動が重なり合うことでこそ生き生きと機能するものです。均質で画一的な都市はその条件を欠き、長期的に都市の持続性を損なうと考えたのです。

本書の中でジェイコブズはかなり過激な主張も展開しています。政府がよかれと思って実施している低所得者向け住宅プロジェクトは、ジェイコブズには外観と住民の均質性をもたらす害だと映ります。また、こうした住宅では一定の所得を超えると退去を命じられることから、人々の流動性が激しくなり、住民が都市に対して愛着を抱きにくいことも問題視しました。

他にも自動車を問題視しています。自動車の数が増えると、車道が拡張され、距離が伸びます。さらに自動車が増えれば高速道路が建設されるでしょう。こうした動きは都市を内部から分断するものであり、都市に多様性をもたらす4つの条件とは相反します。ジェイコブズは4条件を満たすことで歩道を拡張し、むしろ自動車の絶対数を減らすべきだと喝破しました。

ジェイコブズは面白いことに、多様な住宅、店舗、事業所、娯楽施設などが並ぶ風景であっても、それがあまりにパターンとして繰り返されると都市が単調になるという、多様性のパラドックスを指摘しています。こうした問題を回避するために、都市の中に敢えて視覚的障害物を設け、風景にリズムをつけることも有効だと主張するのです。

もちろん、ジェイコブズに対する批判もあります。まず、彼女が観察したのはニューヨーク・グリニッジビレッジなど特定の地域でした。その知見を「都市一般の原理」として展開したため、人口規模や文化が異なる都市にそのまま適用できるかは疑問視されています。ただ、個別の事例から有益な一般原則が導かれることはよくあることであり、彼女の観察範囲が狭いことだけをことさらに攻撃するのはフェアではないでしょう。

次に、彼女はトップダウン型の都市計画に強く反対しましたが、交通インフラ、防災、公衆衛生などは大規模で計画的な整備が不可欠であり、彼女の理論だけではこうしたマクロ課題に対応できないという批判があります。これについては、彼女は決してインフラや公共サービスの重要性を否定しているわけではなく、大規模計画も「市民の声や現場の知恵と対話しながら設計されるべき」と講演やインタビューで語っているそうです。

さらに、彼女が称賛した多様な都市空間も、時間が経つとジェントリフィケーション(都市の一部地域が再開発や人気化によって高級化し、元々住んでいた低所得層や小規模事業者が立ち退きを迫られる現象によって逆に排除を生むことがある点は十分に論じられていません。この批判に対し、彼女は晩年に、「多様性の維持のためには政策的な介入(住宅の家賃規制など)も必要だ」と述べたようです。

(この点、個人的には日本の原宿や吉祥寺などではジェントリフィケーションがそれほど進んでおらず、今も昔も多様性に満ちた街として人々に認識されていると考えます。原宿や吉祥寺で問題が生じていない背景・要因を探ると、第三の批判に対する答えが見つかるかもしれません)

ここで、現在僕が住んでいる土浦市、特に土浦駅近辺について考えてみたいと思います。実は、土浦駅近辺は、ジェイコブズが言う4条件を比較的よく満たしています。人はそれなりに密集して住んでいますし、新しいマンションと古い住宅がそれなりに混在しています。また、幸か不幸か、土浦ニューウェイが失敗しているせいで、土浦駅近辺は巨大交通システムによる分断を免れています。細い路地も多く、道路は複雑です。

ただ、個人的に課題だと感じているのは、土浦駅近辺のマンションに住む住民には、土浦市内で働くのではなく、JR常磐線に乗って都内へと通勤している人が結構多いということです(土浦駅から東京駅は1時間半ほどで行けます)。また、最近は土浦駅近辺で居酒屋の出店が相次いでおり、過当競争が生まれているのも課題だと考えています。2つの要因が合わさることで、土浦駅近辺は昼間人口が少なく、夜の街のようになっているのです。

もっとも、都内で働く人や居酒屋を責めたいのではありません。街としてもっと多様な業態の店舗などがあったら、ジェイコブズの言う4条件を満たす魅力的な街に近づくのではないか?と思うわけです。

実は、「土浦駅近辺は夜間人口が多いから居酒屋を出せば儲かる」などとマーケットイン(市場起点)で考えると、皆の発想が似たようなものになり、過当競争に陥ります。皆が合理的だと思って行動した結果、かえって非合理な結果が生じることを「合成の誤謬」と言います。こうした事態を回避するには、起業家が「自分はこれが面白い、楽しいと思うから事業としてやりたい」と、自分起点に立って事業を興すことが1つのポイントです。人間の興味関心はそうそう重複しないからです。

僕は今年の6~7月にかけて、土浦市内のとある古民家カフェとコラボし、スモールビジネスに関するまちゼミ(商店街の店舗の店主やスタッフが講師となり、専門知識やプロの技を無料で教える少人数制のミニ講座)を開催しました。僕としても古民家カフェとしても初めての試みであったため、参加者が集まるか不安だったのですが、ふたを開けてみたらありがたいことに全5回がほぼ満席になりました。しかも、参加者がやりたい(あるいは既にやっている)事業は全くかぶっていなかったのです。

僕も古民家カフェの方々も、土浦市には自分らしい事業をやってみたいと思っている潜在的な起業家候補が意外といることに大きな手ごたえを感じました。こうした人たちをインキュベーションする仕組み、具体的には経営能力面・資金面でバックアップする制度や、起業家候補同士、あるいは起業家候補と既に起業した人たちがつながり、お互いに支え合う人的ネットワークを構築すれば、土浦駅近辺に個性的な店舗が増えるかもしれません。そうすれば、「買い物は郊外のイオンモール土浦で」という住民が減り、土浦駅近辺の昼間人口も増加に転じるかもしれません。

ジェイコブズが言う理想の都市は、僕が近年考えている「新しい日本的経営」とも共通点が多いと感じます。どちらも多様性と偶発性を受け入れ、人々が幸せに交わり、そこから創発的に価値が生まれることを期待しているからです。本書を通じて、僕が「新しい日本的経営」で考えなければいけないことのヒントをいくつか獲得しました。

第一に、多様性の「負の側面」にも目を向けなければならないということです。多様性は魅力の源泉ではありますが、同時に利害対立の温床ともなります。多様性を通じて楽しく幸せな経営を実現しようとしているのに、ちょっと考えや価値観が合わないだけでその目論見が容易にくじかれるとしたら実にもったいないことです。

時々、自分と波長が合う人とだけ付き合えば幸せになれると言う人がいます。しかし、僕は「新しい日本的経営」においては、敢えて「同床異夢の経営」を目指したいと思います。皆の思惑はバラバラなのに、なぜか一緒の場にいて、そこから前向きなエネルギーが放たれるような経営です。

ここで参考になるのが、以前の記事「【要約・感想】ピーター・ボゴジアン、ジェームズ・リンゼイ『話が通じない相手と話をする方法』―合理的対話の本であり、限界もある」で触れた、政治学者シャンタル・ムフの「闘技民主主義」という発想です。闘技民主主義においては、対立を健全な発展に向けた絶好の契機と見なします。感情をあらわにしても構いません。ただし、可能な限り楽しく対立できるよう、健全に対立を表現するためのルールを開発したり、対立に遊びの要素を導入したりするような工夫が重要となるでしょう。

第二に、都市も経営も、量的・算術的な成長ばかりを志向するのではなく、質的で要素還元が困難な成熟を目指す必要があるということです。ややもすると企業経営では経済的な価値の創出ばかりが強調され、数的な成果が追求される傾向があります。しかし、最近は「数字に追い立てられる経営」に疲弊している人が増加しているのも事実です。

組織開発の現場では、「我々は何のために働くのか?」、「その数字は顧客や社会にとってどんな意味を持っているのか?」を経営者や社員に内省させる取り組みが進んでいます。これは要するに、企業が創出する価値に、経済面以外の意味を持たせようとしていることを表します。

以前、「【要約・感想】レイ・オルデンバーグ『サードプレイス』―サードプレイスは「新しい日本的経営」と親和性があると思うという記事を書きました。その中で、サードプレイスは政治的、社会的、文化的、経済的価値という4つの価値を創造していることを見て取りました。僕は、企業も同様にこれら4つの価値、容易には数字にならない価値を混合的に生み出す存在になればよいと考えています。そうした複雑性は時に矛盾や葛藤を含むでしょうが、それこそが企業で働く人の精神的な成熟につながると思うからです

第三に、都市も経営も「組織立った複雑な問題」(p456)だということです。ジェイコブズは、ウォーレン・ウィーバーの科学思想史を引き合いに出し、ハワードは都市計画を「単純な問題」として、ル・コルビュジェは「まとまりのない複雑性の問題」として解こうとしたと指摘しました。

第二で述べたこととも重複しますが、「新しい日本的経営」が生み出す価値は複合的です。複合的な価値を生み出すために、複雑に絡み合った課題を紐解こうとするのがいわゆるシステム思考なのでしょう。ただ、個人的にはロジックツリーのような単線的な論理的思考よりもはるかに難易度の高いシステム思考を「新しい日本的経営」に取り入れようとは思いません。「新しい日本的経営」は、広く人々の手に届くものでなければなりません。

そもそも僕は、「課題解決」という言葉があまり好きではありません。「社会課題の解決」となると、さらに好きではありません。何となく、人間の理性で越えられない壁はないという、理性に対する絶対的な信仰が見え隠れするためです。僕は、人間の理性をそこまで信頼していません。課題を理性によって直接的に解決する手法を「新しい日本的経営」では採用しません。

僕としては、皆が楽しいことや面白いことに没頭し夢中になっていたら、いつの間にか社会課題が消えていた、という状態にしたいのです。例えば、あるスポーツ好きの若い人が地域でスポーツクラブを事業として始めたら、ファミリー層や高齢者も集まるようになり、多世代間のコミュニケーションが活性化することで、その地域では家族内の不和や高齢者の孤独を問わなくてもよくなったといった具合です。もっと人間の感性を重視し、重層的な楽しさを中心に据えた経営を目指したいと思っています。