
《要点》
◆マネジメントは、企業、政府機関、大学、研究所、病院、軍などの組織のための機関である。組織が機能するには、マネジメントが成果を上げなければならない。マネジメントは機能であって、かつ人である。社会的な地位であって、1つの体系、研究分野である。
戦後のマネジメント・ブームから、我々は3つのことを学んだ。①組織のリーダーシップ、方向づけ、意思決定の責任を負うべきマネジメントは、いかなる国のいかなる社会においてであれ、基本的になすべき仕事は同じである。②マネジメントたる者は技術官僚以上の存在でなければならず、社会において責任を果たさなければならない。③マネジメントは課題によって規定される客観的な機能であると同時に、社会の価値、伝統、慣習によって規定される文化的な存在であって、世界中でマネジメントが多極化した。ゆえに、各国はマネジメントについて互いに多くを学び合うことができる。
◆マネジメントには、自らの組織をして社会に貢献させる上で3つの役割がある。①自らの組織に特有の目的とミッションを果たす。②仕事を生産的なものとし、働く人たちに成果を上げさせる。③自らが社会に与えるインパクトを処理するとともに、社会的な貢献を行う。短期と長期のバランスを取り、管理の仕事と企業家精神の発揮をともに行わなければならない。
【Ⅰ.自らの組織に特有の目的とミッションを果たす】
◆企業とは何かを知るには、企業の目的から考えなければならない。企業は社会の機関であり、その目的は社会にある。企業の目的の定義は1つしかない。それは顧客の創造である。したがって、企業はただ2つだけの企業家的な機能を持つ。マーケティングとイノベーションである。そして、顧客の創造という目的を達するには、富を生むべき資源を生産的に有効活用しなければならない。これが企業の管理的な機能である。
利益とは、マーケティング、イノベーション、生産性向上の結果、手にするものである。利益には4つの機能がある。①成果の判定基準であり、自らの成果によって自らを律するための手段である。②不確実性のリスクに対する保険料である。③明日の雇用を生み出すのに必要な資本を供給する。④医療、国防、教育、オペラに至る社会的サービスの支払いを行う。
◆1人で事業をしているだけならば、自らの事業を定義し説明する必要もない。ところが、組織ともなれば、事業の目的とミッションを検討し尽くし、詳細に明らかにしなければならない。「我々の事業は何か?」を考えなければならない。この問いは、企業を外部、すなわち顧客と市場の観点から見て初めて答えられる。「顧客は誰か?」、「顧客は何を買うか?」、「顧客にとっての価値は?」と問うて初めて答えられる。
だが、「我々の事業は何か?」という問いに答えるだけでは不十分である。とりわけ人口動態の変化を考慮に入れながら「我々の事業は『何になるか』?」と問い、さらに、社会、経済、市場の変化やイノベーションを考慮に入れながら「我々の事業は『何になるべきか』?」と問う必要がある。そして、これらの問いと並行して、事業の目的とミッションに合わなくなったものの体系的廃棄を進める必要がある。
◆事業の目的とミッションについての定義は、目標として具体化しなければならない。目標は8つの領域について必要とされる。①マーケティング、②イノベーション、③人的資源、④資金、⑤物的資源、⑥生産性、⑦社会的責任、⑧利益の8つである。
目標は利益とバランスさせなければならない。現在と将来とをバランスさせなければならない。異なる目標を互いにバランスさせなければならない。そのためには、目標間のトレードオフが必要となる。目標を設定するには、リスクの負い方、現在の犠牲、明日の犠牲についての決定が必要となる。公式はない。それは、リスクを伴う企業家的な決定とならざるを得ない。
◆目標を実現するには戦略計画が必要である。ただし、戦略計画とは、①モデルやシミュレーションといった科学的な手法の束ではなく、定量化のことでもない。②未来に関する予測ではない。③未来の意思決定に関わるものではない。④リスクをなくすためのものではない。
戦略計画を立てるには、①第一歩として不要になった昨日を廃棄する。②次に、「新しく何を行うか?いつ行うか?」を考える。計画とは、未来を考えて今日の行動のために今日意思決定を行うことである。③そして、計画を仕事に具体化する。組織の中の有能な人材を具体的な仕事に割り当て、責任、締切、成果の尺度を伴う必要がある。
◆予算型の公的サービス機関は、企業のように効率を追求できず、またあらゆる関係者を懐柔する必要があるため、集中することができない。しかし、だからと言ってマネジメントできないわけではない。
AT&T、アメリカの大学、TVA(テネシー川流域開発公社)といった例外的な成功例は、公的サービス機関のマネジメントでさえ、「我々の事業は何か?何になるか?何であるべきか?」というリスクを伴う問題を正面から取り上げることによって、なすべきことをなすことができるようになることを示している。
そして、目標と成果を照合し、目的に合致しなくなった目標や、実現不可能であることが明らかになった目標を識別すること、不十分な成果や非生産的な活動を特定し、それらに資金とエネルギーを投入し続けることのないよう、非生産的な活動を廃棄するシステムを作り上げることが決定的に重要である。公的サービス機関は、非生産的な活動を廃棄しなければ倒産するというメカニズムが働く企業とは異なるからである。
【Ⅱ.仕事を生産的なものとし、働く人たちに成果を上げさせる】
◆知識労働者の台頭によって、肉体労働者との対立が激化する恐れがある。また、肉体労働者の代表であった労働組合が弱体化し、マネジメントに対抗する力を失う恐れもある。ただし、これらの問題は、社会にとっては重大であっても、マネジメントにとっては小さな問題である。マネジメントにとって全く新しい種類の問題とは、知識労働者のマネジメントをいかに行うか?である。
仕事を生産的なものにする論理と、人をして成果を上げさせる上で必要な力学は全く異なる。人は、仕事の論理と働くことの力学の双方に沿ってマネジメントしなければならない。
仕事とは客観的なものである。したがって、仕事には物に対するアプローチをそのまま適用できる。①それぞれを分析し、論理的な順序に並べる。②1人1人の仕事を生産プロセスへと統合し、生産の原理(個別生産、リジッド〔固定的〕大量生産、フレキシブル〔適応的〕大量生産、プロセス生産)を開発する。③管理手段を組み込み、フィードバックを行う。
一方で、働くことには5つの側面がある。①生理的側面(人は機械と異なり、1つの作業を反復することに向かない)、②心理的側面(人にとって仕事は辛苦にも祝福にもなる)、③社会的側面(組織社会では、働くことが人と社会をつなぐ主たる絆となる)、④経済的側面(仕事は個人にとっては生計の資であると同時に、経済にとっては明日の資本を作るという役割があり、両者は競合する)、⑤政治的側面(組織では誰かが誰かに仕事を割り当て、誰かが誰かを昇進させるという意味で、権力が行使されている)の5つである。
◆知識労働者の仕事を生産的なものにするには、肉体労働のIE(インダストリアル・エンジニアリング)が参考になる。ただし、IEの3つの誤りを正す必要がある。①仕事の分析のスタートにおいて、最終製品を所与とせず、「何を生産したいか?そのための仕事とは何か?」と問わなければならない。②仕事の分析に職務の設計を含めてはならない。職務の設計は働くことの力学に関わるものである。③仕事の分析を1つの完結した仕事として見てはならない。仕事を生産的なものにするための一歩にすぎない。
プロセスとは宇宙の混沌を秩序立て、現象、活動、問題、状況を定型化し、個別の決定を不要にするためのものである。そして、管理手段が管理できるのは、定型的なプロセスだけである。管理によって例外を見つけることはできるものの、管理に例外を処理させてはならない。知識労働者の仕事は特別の状況を扱うことが多く、定型化が最も難しいが、その場合は知識労働者が自ら定めた基準を持って管理を行う。
仕事を生産的なものにするためのツールは、仕事と働くことを橋渡しするものでなければならない。ツールは仕事を生産的なものにすると同時に、人に成果を上げさせるために設計しなければならない。
◆働く人と働くことのマネジメントについて最も読まれているのは、ダグラス・マグレガーが著書『企業の人間的側面』で紹介したX理論(人は怠惰で仕事を嫌うので、アメとムチが必要である)とY理論(人は働く欲求を持ち、仕事を通じて自己実現と責任を欲する)である。
今日、X理論によるマネジメントはもはや無効である。伝統的なムチであった、飢えと恐怖は今や存在していない。他方、物質的な報酬というアメの方は依然として力を有するものの、物質的報酬の増大の要求の高まりこそが、その動機づけ要因としての有効性を削いだ。豊かさへの欲求には際限がなく、多少の報酬増では満足できない。
近年、産業心理学がY理論への忠誠と称して、アメとムチに代わるものを提供しようとしている。しかし、その中身は心理操作による支配であり、心理学的専制である。人は弱く、病み、自らの面倒を見られないというX理論と同じ前提に立っている。マネジメントだけが万能で、働く人は皆病気であると仮定することはばかげている。
日本企業では、現場の職場グループが仕事を総合的にまとめ、職務を設計する。ドイツの精密工学企業でも、技能者が技術者、化学者、設計者とともに、作業方法の改善、新製品の開発、プロセスと技術の改良に参画する。IBMでは、半熟練の作業員の職務を大幅に拡大するとともに、生産現場において技術者と技能者が協力してエンジニアリングを実施している。これらの企業では、責任の組織化が行われている。
◆働く者が仕事に責任を持てるようにするためには、①仕事を生産的にしなければならない。②情報をフィードバックしなければならない。③学習を継続して行わなければならない。④①~③の条件について、実際に仕事をする者自身が作業に参画しなければならない。⑤働く者にはどこまで任せられているのか、権限を明確にしなければならない。
加えて、働く者が責任の重荷を負うには、雇用と所得の保障が求められる。先進社会では、雇用と所得が当然のものになったからこそ、それらのものを失うことが重大事となっている。同時に、働く者には移動する自由が必要となる。企業としては、余剰となった者のために再就職をあっせんすることが重要である。また、国としては、かつてのスウェーデンのレーヌ・プランのように、技術開発や経済変動によって雇用の過剰が生じる産業から雇用が不足する産業への労働力の移動を促す政策が有効である。
◆働く者に責任を持たせること、すなわち分権化は、マネジメントにとって自らの権限を手放すことになるような脅威と映る。しかし、実際にはマネジメントが本来の仕事に集中できるようになり、権限は増大する。一方で、責任を有する者は、マネジメントに対して高度の要求をする。目線を高くし、真面目に仕事に取り組むべきことを要求する。彼らは労働組合のような批判的な圧力をかけるのではない。前向きである。同じチームの一員である。
だからこそ、「人こそ最大の資産」と言わなければならない。従来のような、①人を助けを必要とする存在と見る福祉的アプローチ、②人を雑事と見る人事管理的アプローチ、③人を費用あるいは脅威として見る労務管理的アプローチは、いずれも人の弱みに焦点を当てている点で無効である。マネジメントの仕事は人の強みを発揮させることである。
【Ⅲ.自らが社会に与えるインパクトを処理するとともに、社会的な貢献を行う】
◆企業の社会的責任に関わる要求の高まりは、企業に対する反感から生じたものではない。むしろ、企業が経済的に成功したからこそ、過大な要求がなされるようになっている。また、政府への幻滅も要求の増大に拍車をかける。社会の問題を扱えるのは政府ではなく企業であると信じられている。しかし、企業のよき意図、尊敬すべき行為、高度な責任感が時として問題を起こすことがある。
◆社会的責任の問題は、第一に、自らの活動が社会に与えるインパクトから生じる(例:公害問題など)。これについては、企業が責任を有する。企業はインパクトを予測し、組織の目的やミッションの達成に不可欠でない無用のインパクトは最小限にするべきである。インパクトの原因となっている活動を中止できれば最善である。
だが、ほとんどの場合、活動を中止することはできない。そこで、インパクトを事業上の機会にする。それも不可能ならば、効果とコストの間で最適のトレードオフをもたらす規制案を作成し、公共の場における議論を促進し、最善の規制が実現するよう働きかけることがマネジメントの責任である。
社会的責任の問題は、第二に、自らの活動とは関わりなく社会自体の問題として生じる(例:雇用問題、人種差別問題など)。それらの問題は社会の機能不全であり、社会を退化させる病である。しかし、企業のマネジメントにとっては挑戦であり、機会の源泉である。社会問題の解決すなわち社会的イノベーションによって自らの利益とすることこそ企業の機能である。一方で、自社の社会的イノベーションに追随する企業が現れないことは、マネジメントにとって恥である。
ただし、企業の社会的責任には限界がある。マネジメントたる者は、社会の問題に対して責任を取ることが自らの本業を損ない傷つけるならば抵抗しなければならない。要求が自らの能力以上のものである時にも抵抗しなければならない。責任が不当な権限を意味する時にも抵抗しなければならない。
◆企業と政府の関係を律してきたのは、自由放任主義ではない。経済力に基盤を置く国家が軍事力を強化するために自国内の企業を輸出へと動員する重商主義と、国家が企業の活動を反トラスト法、規制機関、刑事告発などによって律する立憲主義である。
しかし、いずれの政治モデルも、①政府と企業の活動が絡み合い、しかも両者が競合関係にあるという混合経済が進展したこと、②国家主権と国民経済が分かれた結果生まれたグローバル企業が発展したこと、③社会の多元化によって政府も無数の組織の1つにすぎなくなったこと、④マネジメントの台頭によって政府と企業の境界線がなくなったことによって、陳腐化した。
企業と政府の新しい関係を構築するにあたっては、企業とそのマネジメントを自立した責任ある存在とするものでなければならない。変化を可能とする自由で柔軟な社会を守るものでなければならない。グローバル経済と国家主権とを両立させるものでなければならない。果たすべき機能を果たすことのできる強力な政府を維持強化するものでなければならない。
◆マネジメントたる者に特有の倫理の問題は、彼らを集合体として見た時、今日の組織社会においてリーダー的な地位にあるという事実から発生してくる。彼らはプロフェッショナルの倫理を要求される。最大の責任は、ヒポクラテスの誓いの中に明示されている。「知りながら害をなすな」である。
今日のアメリカ企業のマネジメントは、例えば①経営者が超高額の報酬を受け取っていること、②退職金、ボーナス、ストックオプションなどによって、働く者を同じ組織に縛りつけていること、③前述の利益の機能について十分な説明をせず、企業の目的は利益の極大化にあるとする利潤動機説を信奉していることによって、知りながら害をなしている。
プロたる者は、自立した存在として政治やイデオロギーの支配に従わないという意味において、私的である。しかしその言動が、依頼人の利害によって制限されているという意味において、公的である。自立性と責任という、マネジメントに特有の私的な機能と公的な特性の間の緊張関係にこそ、組織社会に特有の倫理に関わる問題の本質がある。
《感想》
『マネジメントー課題・責任・実践』(原題は"Management: Tasks, Responsibilities, Practices")は1973年、ドラッカーが64歳になる年に発表された本です。原著は800ページを超える大著で、ドラッカーエターナルコレクションでは上巻・中巻・下巻の3冊に分かれています。今日でもロングセラーとなっている『マネジメント〔エッセンシャル版〕ー基本と原則』は、この『マネジメントー課題・責任・実践』の内容をコンパクトにまとめたものです。
ドラッカーは、マネジメントには自らの組織をして社会に貢献させる上で3つの役割があると言います。1つ目は「自らの組織に特有の目的とミッションを果たす」こと、2つ目は「仕事を生産的なものとし、働く人たちに成果を上げさせる」こと、3つ目は「自らが社会に与えるインパクトを処理するとともに、社会的な貢献を行う」ことです。上巻はこの3つの役割について書かれた1冊となっています。
今回の記事では、それぞれの役割についてドラッカーの考えを整理するとともに、僕が構想している「新しい日本的経営」の立場から若干の批評を加えてみたいと思います。
【Ⅰ.自らの組織に特有の目的とミッションを果たす】
マネジメントの出発点は組織の目的・ミッションを明確にすることです。目的・ミッションは、組織の存在意義(レゾンデートル)と言い換えてもいいでしょう。ドラッカーは「我々の事業は何か?」という問いに対する答えだとしています。
我々の事業は自動車製造業である、鉄道事業である、情報通信業である、といった見かけ上の(政府が統計で使用する産業分類上の)定義では不十分です。自動車製造、鉄道、情報通信を通じて、究極のところどのような価値を社会に対して創造したいのか?を考え抜く必要があります。
ただし、ドラッカーは「我々の事業は何か?」に対する答えだけが組織の目的・ミッションだとは述べていません。この問いには続きがあります。「我々の事業は何になるか?」、「我々の事業は何であるべきか?」という2つの問いもセットで考えなければならないと主張します。
僕の解釈では、「我々の事業は何になるか?」というのは、将来の経済的、社会的、政治的、技術的な環境変化を受けて、事業がどのように変質するか?という受動的な反応を表すものです。これに対し、「我々の事業は何であるべきか?」というのは、マネジメント層の人間が社会をこうしたい、こう変えたいと願う能動的な意思を反映したものだととらえています。
この3つの問いにどう答えるかによって、ターゲットとするべき顧客が変わり、販売する製品・サービスが変わり、その製品・サービスを製造・提供するための組織体制や人材が変わります。よって、3つの問いにどう答えるかは、マネジメントにとって大きなリスクを伴う意思決定です。ここまでの議論は、1954年に発表された『現代の経営』にも詳しく書かれています。
ここで、僕の構想する「新しい日本的経営」の立場から、「組織には明確な目的・ミッションは本当に必要なのか?」というそもそも論を提起してみたいと思います。ドラッカーは、”よい”目的・ミッションの条件について特に触れていませんが、よい目的・ミッションは、少なくとも①組織の貢献領域の焦点が絞れていること、②利害関係者が共感できること、という2つの条件を満たしていなければならないと考えます。
しかし、貢献領域の焦点を絞るということは、組織が切り捨てる領域があることを意味します。あることを「やる」と決めたら、それ以外のことは「やらない」と決めるのと同じです。また、共感性を打ち出しすぎると、目的・ミッションに共感できない人はそこから遠ざけられてしまいます。目的・ミッションに合致しない顧客はターゲット外となり、合致しない社員や取引先は契約の対象外となります。
要するに、目的・ミッションがよいものであればあるほど、それは強い排他性を帯びるということです。現代社会には多様な組織が存在していますから、誰でもどこかの組織とは心理的紐帯を結べる可能性があるとも言えます。しかし、どの組織からもこぼれてしまう人がいるとしたら、僕は脱目的的な「新しい日本的経営」で拾い上げたいと思います。
「新しい日本的経営」は、極言すれば「誰もが楽しく仕事ができる世界」を目指しています。それ自体、「新しい日本的経営」の目的やミッションなのではないか?と指摘されることがあります。しかし、楽しく仕事をしたくない人はいないという点で、この世界観は包摂性が高い「当たり前」のことを言っているにすぎず、目的・ミッションとは異なるのです。
【Ⅱ.仕事を生産的なものとし、働く人たちに成果を上げさせる】
ドラッカーは、肉体労働者に代わって新しく現れた知識労働者のマネジメントをいかに行うか?にいつも心を砕いていました。本書におけるドラッカーの重要な指摘は、「仕事を生産的なものにする論理」と、「人をして成果を上げさせる上で必要な力学」は全く異なるという点です。
仕事は客観的なものですから、物と同じように分析することができます。インダストリアル・エンジニアリング(IE)の手法を応用することができます。しかし、それを生身の人間に割り当てる際には、人間の生理的、心理的、経済的、社会的、政治的側面に配慮しなければなりません。人には体力の限界や感情、やる気、組織内での立場や人間関係など、多面的な要素があります。だから、仕事の論理だけでなく、人間の動機や心理に配慮してこそ、初めて成果が生まれるのです。
その上で、ダグラス・マグレガーが著書『企業の人間的側面』で紹介したX理論(人は怠惰で仕事を嫌うので、アメとムチが必要である)とY理論(人は働く欲求を持ち、仕事を通じて自己実現と責任を欲する)に触れています。X理論はもはや無効であり、これからはY理論に基づいたマネジメントが重要だと主張します。
ただし、Y理論は人間に働く意欲と自己実現欲求があるから、自由に仕事をさせればよいことを意味しているわけではないと、ドラッカーは注意を促しています。仕事には厳格さが必要であり、責任を中心に据えなければならないと言います。責任という言葉はドラッカーが好んで使うものの1つです。
一方、僕の「新しい日本的経営」では、責任をあまり重視したくないという思いがあります。責任を有するとは、成果を明確にし、そこに至るプロセスを論理的にストーリー立てて構築することを意味します。そして、成果が出なかった時にはその原因を分析し、自らにしかるべきけじめを課すことでもあります。そのような責任ばかりが強調される組織・社会はややもすれば息苦しくもあり、「新しい日本的経営」が目指している楽しさからはかけ離れてしまいます。
「新しい日本的経営」では、楽しさ、言い換えれば子どものような遊び心を中心に据えたいと考えています。責任を伴う遊びなどというのは聞いたことがありません。遊びは運や偶然によって結果が大きく変わり、そのこと自体が楽しさを構成する要因でもあります。もし遊びが面白くなかったとしたら、「つまらなかったのは誰々/何々のせいだ」など追及せずに、「今日はつまらなかったね」などと言い合い、お互いに感情を共有して終わりにすればいいのです。
【Ⅲ.自らが社会に与えるインパクトを処理するとともに、社会的な貢献を行う】
ドラッカーは企業の社会的責任を論じるにあたって、「企業自身が社会にインパクトを与えるケース(例:公害問題)」と「企業とは直接関係なく発生する社会的な問題に取り組むケース(例:雇用問題、人種差別問題)」とを分けています。
前者に関しては、インパクトを最小化することが有効であり、後者に関しては、社会的な問題を事業機会としてとらえるべきだとしました。現代で言うCSV(Creating Shared Value:共通価値の創造。企業が事業活動を通じて社会課題を解決し、経済的価値を同時に創造すること)を半世紀も前に提唱していたことには驚かされます。
一方で、企業が社会的課題に取り組む際には、自らの事業・強みから大きく離れた領域には足を踏み込んではいけないと警告しています。そこまでするのは逆に無責任であり、もし国家や政府がそれを要求するのであれば、企業はノーと拒絶しなければならないとも述べています。ある意味では、ドラッカーは企業の社会的責任を狭くとらえていたと感じます。
ドラッカーは、企業を経済的な存在と見ており、社会的な課題も最終的には経済的な価値に還元することを志向していたと僕は見ています。しかし、企業は経済的価値だけにとどまらず、社会的価値、文化的価値、さらには政治的価値を創出する存在であるというのが最近の僕の考えです。
企業は人々にとって居場所であり他者との絆を感じられる場所です。製品・サービスは単に顧客の経済的ニーズを充足するだけでなく、精神的なゆとり・成熟を生み出す作用もあります。さらには、企業は社会に立脚する以上、社会が重視する政治的価値、すなわち自由、平等、民主主義、公正、正義といった価値を体現しなければなりません。「新しい日本的経営」では、企業をこれらの重層的な価値の創造主体と見なします。
最近は「社会課題を解決する」という表現が頻繁に用いられますが、それは僕の言葉で言えば、経済的価値に加えて社会的・文化的・政治的価値を創出することとイコールです。ただ、「新しい日本的経営」においては、これらの価値を創出するために何をすべきか?というバックキャスティング的な発想をしません。目的―手段という因果関係を重視しないためです。
皆がそれぞれに楽しいことに夢中になっていたら、運や偶然が働いていつの間にか社会的・文化的・政治的価値が創造されていた(もちろん経済的価値も)という状態を創りたいと思っています。
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