目的なき人生を生きる(ブログ用)
若い時は誰もが「自分は何のために生きているのか?」、「人生にはどんな意味があるのか?」という問いに直面します。現代風に言うと、中二病を発症します。そして、その答えを哲学や倫理学に求めるものです。しかし、哲学書や倫理学の本には答えらしきものは書いてありません。多くの人はそこで諦めて、現実世界と折り合いをつけていきます。

けれども、倫理学者である著者はこの問いをずっと抱えています。パワーや権力を忌み嫌う著者は、
集団の中で、一番大声で笑うのは、一番権力を持っている者である。つまらないダジャレでオヤジが笑うとき、権力者の笑いこそ一番大声であり、笑うことの強制を含んでいるのだ。これを見ると、笑いの権力論的構造がよく分かる。テレビのお笑い番組は、権力を学ぶための家庭内学習、宿題みたいなものだ。(p32-33)
とか、
(アドラー心理学は)負け組倫理学の立場に立った勝ち組倫理学の構築といった風情である。一言で言えば、『権力好きの恨み節』みたいな感じがして、あまり気持ちよくない。(p85)
などと述べており、中二病をだいぶこじらせているように見受けられました。

倫理学と言うと、善悪の境界を客観的に線引きし、正義の名の下に悪を成敗する学問というイメージがあります。ドイツの政治学者カール・シュミットは、政治の本質を「友」と「敵」の対立にあるとし、善=友が悪=敵を打倒するという明快な善悪二元論の成立に加担しました。善く生きることこそが人生の目的であり、すなわち幸福であると主張したのは、古代ギリシアの哲学者アリストテレスです。

しかし、著者は古代から現代に連なるこうした倫理学の系譜を皆<強者の論理>であると批判します。
哲学や倫理学は、勝ち組を褒めそやすための理論的枠組みを構築しようとして、そのために勝ち組が作り上げた政治体制や経済体制を正当化するために力を注いできた。結果として負け組の呪いを暗く悲しく歌うことを避けてきたのではないのか。(p45)
我々の日常的で素朴な実感としても、普遍的な善を想定することは相当困難であり、善悪の区別は明確ではありません。それでも「全き存在」でありたいという人間の欲求は根強いようです。

個人のレベルで言えば、カスタマーハラスメントを止めよう、浮気や不倫をなくそう、大谷翔平のような聖人になろうといった掛け声が毎日のように飛び交っています。僕は経営コンサルタントなので、企業経営にも言及すると、SDGsを実現しよう、コンプライアンスを遵守しよう、ミッションよりも崇高なパーパスを掲げようというのが最近のスローガンであり、企業もまた個人と同様に「全き存在」であらねばならないという圧力が高まっています。

ところが、不思議なことに、個人や企業が善を追求すればするほど、その反作用としてなのか、狂暴な悪が生じているように僕には見えます(例えば、昨今の犯罪の高度化、複雑化、組織化など)。ちょうど、泥水を純水と泥に分けると、泥の濃度が高くなるようなものです。そして、その悪を許すまじと善が攻撃的・暴力的な態度に出れば、いよいよどちらが善でどちらが悪なのか解らなくなってしまいます

人生の目的は善く生きることなのでしょうか?幸福になることなのでしょうか?『目的なき人生を生きる』というタイトルの通り、著者は人生に目的などないと喝破します。幸福は人生の目的ではなく、人生をガイドしてくれる道路標識のようなものにすぎないとも言います。
一つしか目的がなければ、一人一人個性を持った個人が同じ仕方で小さな集団において受け入れられるわけはない。しかも一つしか目的がなければ、多くの個体をこの世に増殖させる必要はない。新しい個体が次々とこの世に現れ出てくるということは、そのことだけで、目的が一つしかないことを否定するし、目的がないということを論理的に含意している。(p69)
目的は無数に多様に分散しなければならないから、『無数にあるから決まらない』か『そもそもない』とするしかない。無数にあるとしてもよいのだが、自分のための目的があるとしても、それに出会う可能性は宝くじを当てるよりも難しい。(p77)
著者は、目的なき人生を生きるための<弱者の論理>、<救いの倫理学>、<ぐずぐずな倫理学>、<小さな倫理学>が必要であると説きます。
人生の目的を見出し、他の多くの者を犠牲にして、その目的を実現できた人々を賛美し、権力者に祭り上げ、その利益をもらうのではなく、負けた人々の呪いと苦々しさの沼に咲くハスの花を嘆美する倫理学を私は求める。(p164)
ここでカギとなるのは「偶有性(偶然、アクシデント)」です。目的の実現に不可欠な手段が「必然性」を帯びているのだとすれば、不可欠ではないものは「偶有性」を持っていると言い表せます。今、人生には目的がないとしたのですから、我々が生活の中で直面する出来事は全て「偶有性」に他なりません。我々は「偶有性の海」を泳いでいる、と著者は誌的に表現しています。

偶有性の海を泳ぐ―素敵な響きを持つフレーズです。人生の明確な目的が見つかり、さらにそれを実現できる人も確かに存在するでしょう。目的を達成できた暁には、今までの苦労が報われて、人生は楽しい、自分は幸せだと思うことでしょう。しかし、楽しさや幸せを味わう権利は彼らにしかないのでしょうか?予期せぬ人たちと出会い、その人たちとの関係を通じて予期せぬ方向へと物事が展開していくその流れに身をゆだねるのもきっと楽しいはずです。そして、幸福に関する研究が明らかにしているように、幸せの最大の源泉は「良好な人間関係」にあるのです。

前述の通り、僕は経営コンサルタントですから、経営の話にも拡張させてみたいと思います。一般的に、企業や組織には目的(存在意義、ミッション、ビジョン、パーパスと言い換えてもよい)が必要だとされます。ここで、「企業・組織に目的が『ある』―『ない』」という軸と、「働く個人に目的が『ある』―『ない』」という軸でマトリクスを作ると、こんな図を描くことができます。
20251221_経営が成り立つのはどの象限か?(ブログ用) - コピー
右上は、企業・組織にも働く個人にも目的があるという象限です。両者の目的が合致していれば、エンゲージメント(絆)が深まり、企業・組織のパフォーマンスが上がります。これは「伝統的経営」の考え方です。

一方、企業・組織には目的があるが、働く個人に目的がないという左上の象限においては、社員は企業・組織の目的を実現するためのコマ、機械の部品のように扱われてしまいます。いわゆる「搾取型のブラック企業」です。

逆に、働く個人には目的があるが、企業・組織に目的がないという右下の象限では、社員が経営陣に失望し、離職率が高まります。とりわけ、優秀な人材から順に企業・組織を離れていく傾向にあります。

左上と右下の象限では、持続的な経営が成り立ちません。では、残る左下の象限、すなわち、企業・組織にも働く個人にも目的がない場合はどうでしょうか?通常、この象限は「烏合の衆」と呼ばれます。ただの人だかりで何もできないと思われがちです。しかし、僕はこの象限でも経営が成り立つ可能性があるのではないか?と考えています。「ある―ない」の組み合わせはハレーションを起こしますが、「ある―ある」の組み合わせが機能するのであれば、「ないーない」の組み合わせも機能するのではないかと直感的に思うのです。

企業・組織は結局のところ人間の集合です。個々の人には目的がないのに、彼らが集まると目的が明確になる、いや目的を明確にするべきだというのは、やや乱暴な論理のように僕には見えます。

烏合の衆は、「その場にいると何だか楽しそうだから」というただそれだけの理由で集まっています。そして、各々が自分の楽しいことや面白いと思うことに熱中し、人間関係から生まれる偶有性を乗りこなすうちに顧客がついてきて、そして利益も残るような経営があるならば、僕はそれを「新しい日本的経営」として提案したいです。

先日、永井恒男、 齋藤健太『会社の問題発見、課題設定、問題解決』(クロスメディア・パブリッシング、2019年)を読んでいたら、マッキンゼーの調査への言及がありました。それによると、人が働く動機には「直接的動機」と「間接的動機」があり、前者は企業の業績を押し上げ、後者は業績を押し下げると言います。「直接的動機」は①楽しさ、②目的、③可能性から、「間接的動機」は④感情的圧力、⑤経済的圧力、⑥惰性から構成されています。

同書は元々、ビジョンアプローチの重要性を説くものなので、企業がビジョンの構成要素である自社の目的と将来の可能性を明確にし、それが社員自身の仕事の目的や可能性と合致すれば高いパフォーマンスにつながる、というロジックが展開されています。

しかし、僕が着目したのは、①~③の中で企業の業績に与えるインパクトが大きいのは、②③よりも①であるという点です。つまり、企業のビジョンよりも、社員が好奇心を持って仕事を楽しんでいるかどうかの方がより重要なのです。
僕が「伝統的経営」という言葉を使う時は、マネジメントの父であるピーター・ドラッカーの経営思想を意識しています。ドラッカーは自らのマネジメント論を体系化するにあたり、企業の失敗例ではなく、偉大な企業の成功事例に着目したと自伝的な著書『傍観者の時代』で述べています。

ということは、「伝統的経営」は一部の世界しか見ておらず、それが全てではないことを示唆しています。ましてや、「伝統的経営」が自らの合目的性を武器に他の経営のあり方を排除するようなことがあってはならないと思います。僕が目指しているのは、「伝統的経営」も「新しい日本的経営」も共存できるような社会です。「伝統的経営」は「勝つための経営」ですが、「負けない程度の経営」として「新しい日本的経営」を用意しておくことは、失敗の救済を全て国家に依存するのではなく、社会にしなやかなバッファを提供することになると考えています。